俗世と信仰『クララとお日さま』

カズオ・イシグロの『クララとお日さま』を読みました。

以下、物語の核心そのものに関するネタバレがあります。

 

物語は終始主人公であるクララの視点で語られます。クララは子供向けの友人として作られた人造人間(作中ではAFと呼ばれる)です。ショップに展示された彼女はやがてジョジー・アーサーに気に入られ、彼女の友人として買われていきます。

主人公の視点で語られる物語が次第に違和感を増し、隠されている異様な世界が少しずつ姿を現してゆく点で、そして、主人公がその世界の異様さに異を唱えることなく、ただひたすらに自分にとって大事なもののことを考える点で同じ作者の『私をはなさないで』によく似ています。

この作品にはいくつもの見どころがありますが、最初に読者が考えるように導かれるのは「クララとは何か」という疑問です。読者はこの疑問を最後まで持ち続け、作品世界でクララがなんであるかについて完全な説明が与えられるのは、ほぼ最後のページです。その意味で、この小説は無意識のうちに読者を考え続けさせる作品になっています。

もちろん、クララがなんであるかについては早いうちに説明があります。例えば、彼女はAFであり、工業製品です。おおむね6歳から8歳程度の知能があるようですが、性格はよくしつけられた10代後半の少女のようでもあります。運動能力や一部の感覚は最新型に劣るが観察力と考える能力に勝るとあります。

特にクララが購入された後に始まる描写は、読者に一層考えることを求めます。説明なしに現れるボックスとは何か。彼女が見ている人間の世界と我々の世界のギャップ。やはり説明なしに用いられる「向上処置」という言葉。テクノロジーが発展しても変わらぬ人間の身勝手さや醜怪さについてクララ自身が一切論評しないことは、彼女が従順なロボットなのか友達と呼ぶにふさわしい自我をもった生命なのか、ひたすら読者に考えることを求めます。

クララが抑制のきいた落ち着きある性格として描かれていることに対して、ジョジーの母親であるクリシー・アーサーたち人間の営みは、非常にぎごちないものとして描かれています。クララ自身は何の論評も下しませんが、アーサー家や隣家は経済的な格差、母子家庭、将来への不安、身勝手さやその他あらゆる問題に常に小突きまわれれています。購入されたクララは、ジョジー以外からはきちんとした人格を持つ人間として扱われていません。また、クララのような存在を忌むべきもの、あるいは不平等への不満をぶつける先として考えている人がいることが徐々に明らかになります。

後半に入ってジョジーの母親がひそかに進めていたショッキングな計画が明らかになります。それは彼女が子供のために行ったとする向上処置への、彼女自身のためのバックアップ計画です。ジョジーの母親も、ジョジーのボーイフレンドであるリックの母親も子供のためと言いつつ愛する自分のためになりふり構わぬ人間であり、そういった姿も物語を進めるうちに明らかになっていきます。

一方で、外の世界とは別にクララはゆっくりと「お日さま」に関する考察を深めていきます。それはショーウインドウに飾られたときに彼女が目にした奇跡(実は奇跡でも何でもない)に端を発するもので、ある意味子供っぽい信じ込みやすさの結果と言える他愛もない妄想です。しかしながら、彼女のお日さま崇拝はゆっくりと深みを増していきます。そして終盤の大転回点に向けて、急速に信仰めいた敬虔さと純粋さをまとうようになります。

クララがお日さま信仰を深めていった根底にあるのはジョジーに対する無償の愛情です。病に犯されたジョジーを救う方法をクララは知りません。彼女ができるのはひたすらにお日さまに祈り、その祈りを成就するために自分が何をできるか考えることだけです。宗教の知識を一切持たないにもかかわらず、しまいに彼女はその身をささげることすらいとわなくなります。

それでジョジーがお日さまの特別な助けを得られるものなら、喜んでもっと、いえ全部でも、捧げます

納屋に差し込むオレンジの光と祈りをささげるクララの姿は、作中で最も美しい場面です。

人々はクララに関心を持ちません。ジョジーは友達としてクララと接していますが、あくまでナンバーワンはリックです。リックはクライマックスで話が大きく動いた後、クララへの信頼を固いものにします。しかしながら、彼の心の中にあるのは未来の事だけです。

ジョジーとリックは大人たちの勝手な考えに振り回されず、格差を乗り越えた自分たちの未来を描きます。クララがそれを純粋な愛情かとリックに尋ねるシーンがあります。愛情だと答えたリックは、しかしながらジョジーと同様自らの将来を何物よりも優先するようになります。純粋だった子供たちもやがて大人になっていきます。大人になっていくジョジーもリックも、もはやクララに大した関心をもっていません。

クララが何を考え、どのように行動したのか。彼女は周囲にそれを秘匿します。それはうしろめたさゆえではなく、彼女にとってお日さまとの約束が神聖なものであるからです。それゆえに彼女にとってジョジーに起きたことは信仰の到達点としての奇跡です。また、これを秘匿していることは彼女が命令に唯々諾々と従う機械ではないことを示しています。しかしながら、それゆえに周囲はそのことに何の関心をも持ちません。クララ以外の人にとってジョジーの出来事は医学的な例外に過ぎません。物理的な接触はあるにもかかわらず、この精神的な隔絶は修道女と俗世の人々を見ているようでもあります。

皮肉なことに本当にクララの内面に関心を持ったのは、作中随一の「非人間的な心」を持った存在として描かれるヘンリー・カパルディです。

AFの行動なら見えるし、AFの意思決定やお勧めは堅実で信頼出来て、ほとんどの場合、正しい。だが、どうやってその決定やお勧めに至ったかのか、それがわからないのが気に入らないという。

ヘンリーが語るこの状況は、実はクライマックスでにアーサー家に起きたことそのものです。しかし、クリシー・アーサーもジョジーも、もはや関心を持っていません。彼女たちにとってジョジーに起きた出来事は過去の幸運であり、クララは古くなって使いみちのなくなった家電に過ぎません。

クララには心があります。喜怒哀楽は抑制されているものの深い愛情と自ら育んだ敬虔な信仰があります。しかしながら、人はそこにまったく頓着しません。心があろうがなかろうが、彼女は家電であり、用がなければ廃棄され、往時を懐かしむ目的だけに廃品置き場で眺めておしゃべりの相手をさせるアンティークでしかないのです。

『私をはなさいないで』は法が権利を認めない人間のひたむきな献身を描いた物語でした。一方、『クララとお日さま』は喜怒哀楽を抑制されていると思われる人工知能が心の中で育む敬虔で美しい信仰を描いています。個の悲しさと美しさ、それを無視する「正しい」社会の対比と言う点でも両作品は似通っています。

モノに対して感情移入するロマンティックな話が好まれる中で、異彩を放っている小説でした。

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