5 「武士道」に見るダーウィン主義論争の空気

新渡戸稲造の「武士道」を読みました。

武士道 (岩波文庫 青118-1)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

斜に構えて評すれば、失われていく精神主義固執するノスタルジーと言うこともできますが、落ち着いて読めばこれほど瞠目する本にはそうそうお目にかかれません。
まず目を引くのは文字通り古今東西書物からの大量の引用です。本邦の書籍が多数含まれるのは当然として、西洋文学や思想書に対する新渡戸の読書量もそうとう大きいように思えます。こちらが圧倒的に読書量で負けている以上、新渡戸の読書が精読か乱読かは知るよしもありませんが、1899年、つまり明治32年という出版年を考えれば、既に前例はあるといえども単身渡洋して異邦の文化を吸収しまくった男児の魂には圧倒されるばかりです。
しかし、もっと驚いたのは冒頭の第一章の以下の一文です。

この階級は、長期間にわたり絶えざる戦闘の繰り返されているうちに、最も勇敢な、最も冒険的なものの中から自然に徴募されたのであり、しかして淘汰の過程の進行するに伴い怯懦柔弱の輩は捨てられ、エマスンの句を借用すれば、「まったく男性的で、獣のごとき力を持つ粗野なる種族」だけが生き残り、これがサムライの家族と階級とを形成したのである。(武士道 29p)

はっきりと、「淘汰」というダーウィン主義的な考えが現れています。現代では人間に対するダーウィン主義の適用は非常に繊細な話題です。下手なことを言えば社会生命を抹殺されかねません。しかし、「武士道」のこの一文は幾分婉曲的とはいうものの、まさに人間の集団に対する「淘汰」がある方向への変化を進めると言及しています*1
新渡戸稲造が「武士道」を書いた19世紀の終わりは、すでに思想としてのダーウィン主義が広く一般に知られていた時代でした。
ちょっと脇道にそれて、日本の出来事とダーウィン主義に関することを出来事を並べてみましょう。

ダーウィンが「種の起源」を発表したのは日本では安政の大獄のころで、これを引き金に徳川幕府は終焉への坂道を転がり始めます。
ダーウィンは敬虔なクリスチャンではなかったそうですが、それでも教会からの攻撃を恐れていたと言われます。一つはエマ婦人が敬虔なクリスチャンであり、常にその目を気にしていたらしいことが原因でしょう。そしてもう一つは、やはりダーウィンが自分の仮説の影響力を正確に理解していたからだと思われます。
ダーウィンの仮説は、動物の進化の過程から神を取り除きます。それだけでなく、「進歩の必然」すら取り除きます。人類がこの形で現れたのはまったくの偶然であり、必然性はないと主張するのです。これは真っ向から教会の意見と対立します。事実、ダーウィンの仮説は宗教界を含む思想界から激しい攻撃を受けます。
本来、戦闘的ではなく、長きに渡って健康を損なっていたダーウィンがひとりでこの手の激しい攻撃を受ければひとたまりもなかったでしょう。しかし、実際には多くの同調者が彼に代わって活発な論戦を繰り広げました。
ダーウィンの番犬」を自認したといわれるトマス・ハクスリーもそのひとりです。

宇宙の進行は道徳性を有せずとなす、ハックスレーの断定を、武士道は容認するを得なかったのである。(武士道 35p)

「武士道」におけるこの文章は、ハックスリーの次のエッセイを差していると思われます。

Yet if that which I have insisted upon is true; if the cosmic process has no sort of relation to moral ends; if the imitation of it by man is inconsistent with the first principles of ethics; what becomes of this surprising theory?

Let us understand, once for all, that the ethical progress of society depends, not on imitating the cosmic process, still less in running away from it, but in combating it.

武士道を語るにあたって引用する「宇宙」ということばが、ハックスリーの言う「宇宙」である必要はないと思われます。が、それでも新渡戸が西洋の読者に"Bushido"の思想を紹介するにあたり、ハックスリーを引用すべきだと考えたのは興味深いことです。新渡戸が敬虔なクリスチャンであったことを考えれば先の「武士道」の一節にはある種のおかしみも感じます*2
「倫理が自然淘汰の結果生まれるとは考えられない。だから、人間が倫理を持っていることこそ、まさにダーウィンが間違っている証拠だ」といった論争は盛んになされたことでしょう。そういった論議に真剣かつ精力的に取り組んだ人々が居た結果、ダーウィン主義はじわじわと受容の輪を広げ、その後の思想に大きな影響を与えることになります。
「武士道」のような東洋思想の紹介書籍にその様子を垣間見ることができるというのは、とてもおもしろいことです。
本書は海外の文学や思想に触れた新渡戸が「日本に対する誤解を正そう」という意気で書いた日本の哲学の紹介書であり、海外の読者が違和感を抱かないよう比較基準として多くの海外文学、海外思想が「同様の考え方」として紹介されています。そもそも新渡戸自身が書いているように武士道には中心教義を表した文書が存在しない以上、あくまでこの本に書いてあるのは新渡戸による個人的解釈に過ぎません。しかし、武士道の下にある個別の思想や風習について良い点だけではなく悪い点も上げていることから、新渡戸自身が客観性を持ち込もうと考えている事は評価すべきです。それはキリスト教的思想と対立するハックスリーの思想を彼が理解しようとしていたことと無関係ではないでしょう。そういった人物であったようです。
最後の章で「武士道は現代社会の気風にあわないため、騎士道と同じ道をたどるだろう」という結論をさわやかに書ききっているのが印象的でした。

*1:新渡戸が考えているのは生物学的進化よりドーキンスの言うミームに近いかもしれない

*2:ハックスリーは、この主張とは別に聖書には倫理規範として重要な価値があるから学校教育で取り上げるべきだと考えていた