ゲームの規制と表現の自由

あちこちで現在進行形で論じられている某ゲームの規制問題には関わりませんのであしからず。規制する側の意図がどうとか言う問題に首を突っ込む気は無いので。
どのようなゲームであれ、規制に対する反対意見としての「表現の自由」には違和感を覚えます。なぜならば、ゲームの主体は表現ではなくて誘導なので。
小説や漫画、映画、写真といったものは、制作者の意図を表現するメディアです。表現されたものに対して、読者や視聴者はそれを自分の価値観で図って解釈します。もちろん心を揺さぶられる、劣情を刺激されるといったことはあるのですがそれはあくまで受け手の過去の経験や教育の枠組みの中でのことであり、誘導的な面はそれほどありません*1
一方で、ゲームというのは本質的に誘導であり条件付けです。目標を達成すればこれだけ気持ちよくなりますというご褒美が最初に提示されていて、その目標を達成するために努力する枠組みが提供されます。ご褒美はゲームによって様々ですが、たいていは得点化され、勝敗が決められ、順位が付けられた上で与えられます。
ゲームには訓練という側面が必ずついて回ります。ご褒美を得るためにはより多くの得点が必要でありそのためには得点を得やすくなるよう自分を訓練しなければなりません。そして訓練とは条件付けでもあります。
特定の反社会的行動を条件付ける、あるいは行うように訓練する傾向のあるゲームが、小説や漫画、映画、写真といったメディアより厳しい水準で規制をかけられるのは、私には自然なことのように思えます。つまり

  1. 暴力礼賛映画が人を暴力に走らせるなんて馬鹿馬鹿しい
  2. 暴力礼賛ゲームが人を暴力に走らせるなんて馬鹿馬鹿しい

のうち、私は1に対しておおざっぱに言って同意しますが*2、2にはおおざっぱに言って同意できません。

*1:もちろん、扇動的なメディアというのはあるしあったからこそ表現の自由憲法で語られるほど大きな意味を持つことになった

*2:ただし、子どもに見せるなという意見にも賛同する

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