SFが衰退した理由がここにある

白鹿亭綺譚 (ハヤカワ文庫 SF 404)

白鹿亭綺譚 (ハヤカワ文庫 SF 404)

クラークによるほら話集です。
テムズ川を眺めるロンドンの一角にひっそりとたたずむ、パブ白鹿亭。何の変哲もないそのパブも、どういうわけか水曜の晩は科学者や小説家、編集者といった一風変わった人々でにぎわいます。そこで披露されるのは到底信じられない、だけど、ひょっとしたらと思わせる発明・冒険の数々です。
50年代の頭に書かれたこの本は、徹頭徹尾、読者の知的水準の高さにひたすら頼っています。それは黄金期のハードSFすべてにいえたことでもあるのでしょうが、書いてあることが荒唐無稽と筋の通った科学のぎりぎりのところにある、ということを理解できなければ、この短編集を楽しむことはできないかもしれません。
もともとハードSFが得意なクラークですから、この短編集にあるのも同様にハードなほら話です。安心して読めるほら話の中に、うっかりすると足元をすくわれそうな、本当そうに見える作品がいくつもあるのが、クラークの真骨頂でしょう。たとえば「みなさんお静かに」に登場するフェントン・サイレンサーなど、現在広く使われるアクティブ・ノイズ・キャンセラーそのものです。クラークはベル研究所*1に友人がおり、各種の音響実験について話を聞いていたでしょうから、ここに書いていることは、理論上可能だと思っていたはずです。実用まで数十年かかりましたが。
それだけではなく、ポップカルチャー化してしまう前の古典的な小説らしい敷居の高さがこの小説群にはあります。たとえば、陸軍が推進するコンピューター戦術プロジェクトが、「クラウゼビッツ計画」であるところでクスリと笑えるか否か。この小説が書かれたころは、まだ、知的な豊かさがその重みを失っていないころです。引用されるのはアニメの主人公のせりふではなく、古典の一説であり、古典に目を通しているかいないかで蚊帳の中に入れてもらえるかどうかが分かれてしまいます*2
SF作家という職業につく人は、広い科学的知識と世間に対する知識をもち、溢れるほどのアイデアに後押しされながら、知的な読者に向かって自らの知識と空想力を問うていました。残念ながら今ではそういう人はSF読者ではなく投資家に向かって話しかけます。近未来技術への到達速度が上がった結果、小説を書くより自分が実現に向けて走ったほうが、実入りがよくなったからです。おまけに読者はポップカルチャーのほうを向いているし。
真に荒唐無稽なスペース・オペラの作者くらいしか、このフィールドには残っていないのかもしれません。

*1:当時世界最高の音響研究所

*2:この短編集の中のパブの亭主は、カウンターの隅でT.S.エリオット全集を読んでいる

/* -----codeの行番号----- */