カウント・ゼロ

WEBページ、掲示板、Blog、SNSTwitterときて、今度はFacebookだそうな。こうしてみると、IT業界も絞られてきたのか、総称より固有名詞が語られることが多くなったように思う。Mixiが、Facebookが、と人々の口にのぼりはするが、そういうサービスは固有のAPIとセットになっていて、Blogのあるサービスがヒットしたから他のサービスもヒット、というわけにはいかなくなってきたのかもしれない。だってAPIが非互換だと、同じアプリが使えないのだから。
もうすでに人気サービス同士が互いのAPIを使いあうってことは起きていて、たぶんAPIを大手に使わせるための必死の営業も行われているのだろう。超大手のサービス同士が手に手を取ってがっちりスクラム、新規も弱者も入りこませない勝ち組クラウドの時代がきっとそこまで来ている。もしそうなったら、自称負け組の人々は「リア充死ね」と悪態をつきながら、にちゃんねるに撤退していくのだろうか。
TwitterやBlogを素晴らしいツールだ、人生が、世界観が変わったと絶賛する人々がいる。人々がこんなにつながりあえるなんてすばらしい。集合知がこれほど強力だとは思わなかった。と。
一方で、あんなものには何の意味もない。と言う人もいる。自分の出力にだけ意味があって、他人のぶつぶつ言っている様を読む暇があったら生産にいそしむべきだと。ちょっと前にそんなことを言っているミュージシャンか何かがいたようにも覚えている。カッケー!というコメントが付いていたようだが、まぁ、あれだ。そういうのは実は彼の強い個性じゃなくて、日本人の間に古くから広く蔓延しているひきこもり志向だったりする。
趣味性の強い、だけど知的労力をひどく要求されることをやっていると、個人での活動に限界が生じる。容積と単位体積当たりの能力の決まった脳みそでは、いかんせん、やれることに強い限界がある。限界に挑戦していると、本を読んで新しいことを取り入れる余裕すら失う。
そういう、ちょっと狭い領域にはTwitterは向いている。どういうわけか、マイナーなことをしている人というのは実は世の中に掃いて捨てる程いるらしく、そんな人たちがアイデアや実行したことをぶつぶつとTwitterに書き込んでいる。適切なフォローを行っておけば、Twitterのタイムラインは恐ろしく濃密な価値をもつようになる。
こういうものがつながりとか集合知のよさなのだろう。だが、際限なくそういったものを受け取るわけにはいかなくなってきた。
今年で46歳である。それほど年齢には頓着しないつもりだったが、さっき覗いた鏡には頭の白いものがずいぶん増え、疲れた顔をした男が写っていた。生物学的な死は、あるいはずっと先かもしれないが、もう、前奏曲としての老いは始まっている。頭の働きは鈍っているし、体を動かす能力もずいぶん低下した。ここ1年急増してきたミスタイプにはぞっとする。
この先、身につけることのできるスキルセットはほんのわずかしかないはずだ。ずるずると先延ばしにしてきた、というか目をそらしてきた勉強のつけは重い足かせとなって歩みを阻む。自分の能力には不満だが、この先学べることは少なく、何かを生み出すために残された時間も残り少ない。
つながりとか、集合知は確かにすごいのだ。だが、残念ながらその興奮の渦に身をゆだねている余裕は少なくなってきている。Twitterを通して見える、組み込み関係の無数の小規模コミュニティには、それぞれとてつもなく重しい事が待ち構えているはずだが、それを求めて旅に出ることはもはやできない。やるべきことは足元にあるはずである。
自分ではずいぶん丸くなったと思う。1時からの電話会議に備えて寝なければならず、なのにちっとも眠れない。そんな夜に、しつこい頭痛をなだめることも兼ねて、出張先のホテル部屋の高そうなウィスキーに手を出す程度には柔らかくなった。若いころには決してしなかったような真似だ。
15年前の、毎年「今年は去年よりいい年だった」と感じていたころとは違う。いろいろなチャンスを逃してしまい、いろいろな能力が衰えてきた。目の前の可能性の扉は、もうほとんど開いていない。その代わりに覚えたのが、ウイスキーの香りを楽しむことだとしたら、少し割があわないぞ、と思う。