車輪の再発明は、誰にとって無駄で、誰にとって大切か

「再発明」という言葉は批判的にしか使われません。しかし、再実装はそうでもない。再実装は自分のためになるから大事だよと言うエントリ。

なんかの実装がオープンソースで公開されているときに、同じ機能の実装を行うのは「車輪の再発明」で無駄な行為だといわれた時期がありました。
でも、それは「再発明」ではなく「再実装」であって、とても大切な行為です。

オープンソースの再実装/再発明が無駄か大切かというのは立場の違いです。
オープンソースを社会的運動と捉え、企業による支配に対する闘争行為と位置づけるならば生産性を落とす再発明は罪です。すでにあるソースを活用して生産性を高めて戦いの一線に躍り出るか、すでにあるソースを磨き上げて味方*1の戦闘力を上げるというのが正しい方法です。
しかしながらオープンソースの政治面に身を投じないのならば、自分で実装すると言うのは明らかに血になり、肉になることです。仕事でなく趣味ならばなおさらでしょう。私だったら、面白そうなコードは人が作っていようがどうしようが、自分で書きますね。みんなそうしていると思いますよ。世の中には同じようなブツがたくさんあるでしょう。Linuxディストリビューションとか ;-P
それにしても、多分に言葉のあやだとは思いますが

車輪の再発明はするな」という言葉で車輪の再実装を阻む行為は、「車輪を実装した」という経験をもたせないようにして、先行者利益を確保するという、孔明の罠なのです。

このようなことが書かれてブックマークが何十も付くようになったあたり、オープンソースって本当に大きくなったなと思います。まだまだマイクロソフトには及びませんが、大きくなったオープンソースは、悪意なき人々から話のネタとして痛くもない腹を探られることが増えるのでしょうか。

*1:自由の戦士たるオープンソースプログラマ

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