生々しくて向き合えないという話

ツイッターで興味深いつぶやきを見かけました。

はやりのバーチャルYoutuberを見た後に生身のYoutuberを見た人の感想。

 凄いなぁ、人類ここまで来ちゃったかーなどとSF風に捕らえてしまいます。

A.C.クラークの短編『神々の糧』には、かつて人間が動物の肉を食べていたということに、耐えられなくなった社会が描かれています*1

しかし、考えてみればそれほど不思議なことでもないかも知れません。

Blogブーム以降、拙blogをはじめとする素人文章が洪水のようにおしよせて来ました。世の出版社の編集を通さない素人文章がその辺に無造作に転がっている時代であるわけですが、それらの中には目を覆わんばかりの酷い文章が沢山あります。わたしたちは既に忘れつつありますが、元々人目に触れる文章というのはプロによる調整がなされてあとの文章であった時代が、つい最近まで続いていたのでした。

似たような話として「編集を通さない人格」というものもあります。ツイッターで作品やインタビューではなく作者や本人の言葉に触れる機会が出てきたわけですが「え、この人って、こんなだったの?」と驚く事もあります。乱暴な話ですが本来生のままでは見るに堪えないような振る舞いの人も、編集部のフィルターを通して調整することで商業出版物の品質となるよう調整されていたのでした。

Youtuberというカテゴリが成立して「素人でも芸能人みたいに人気者になれるよ」と言われるのですが、有り体に言ってこれは調整されていないコンテンツがそのまま人目に触れていると言うことです。2次元という調整フィルタを通したバーチャルYoutuberを見た後に、生身のYoutuberを見てえぐいと感じることは、ある意味当然なのかもしれません。

 

 

*1:歴史的には理解されているが、公の場で口にするのは憚られる事になっている