公衆衛生の統計性と全体主義性

COVID-19騒ぎに関して、何度も興味深い出来事にぶつかっています。

COVID-19のような疫病に関して「興味深い」と言ってしまうことは「不謹慎リンチ」を食らう危険性があります。とはいえ、患者の数が指数関数的に増加する様子をグラフで見せられたら

「なんて美しいグラフだ」

と思ってしまいます。こういう気持ちは、なかなか抑えきれないものです*1

COVID-19によって我々が改めて認識を深めたものはたくさんありますが、その中でも公衆衛生の統計性と全体主義性は、私にとって非常に興味深いものです。

 

極端な例

ひどく乱暴な架空の例を挙げます。

「感染力が強く、発病率も致命率も高くて、放っておくと人口の99%が死ぬ感染症

があるとします。感染力が強いので早くワクチンを打たなければなりません。この病気に

「接種後100人のうち1人が死ぬが、99.9%有効なワクチン」

が現れたとします。接種するかしないか。

個人として考えれば、接種しなければ9割9分死にます。それもごく近い将来にです。接種すれば接種で死ぬ確率は1%、病で死ぬ確率は0.1%です。これを理解できるなら

  • 接種しなければ近い将来の生存率は1%
  • 接種すれば近い将来の生存率は99%

だと自分で結論づけることができます。だから接種したほうがいいに決まっています。生存率が99倍、死亡率が1/100になるのです。すばらしい。

しかし、それでも接種が原因で1/100の確率で死にます。この例で挙げた架空のワクチンはロシアンルーレットじみています。

絶対安全なんかない

数年前から標準医療に対する風当たりが強くなってきています。ざっと思い出すだけでも

  • 病院で出産することへの忌避
  • 21世紀のご時世に出産なんかで死ぬのは間違っているという非難
  • ワクチン接種への忌避
  • 医者が好みの薬を処方してくれないと怒る

いろいろな切り口がありますが、共通しているのは

「病で死ぬことが減ったので、医者を小うるさい連中としか思わない人が増えた」

事のように思えます。

難しいことをお金を払って他人(専門家)に任せるというのは高度な社会では当然のことです。しかし、多くの人が病気で死んでいた100年前とくらべて公衆衛生や医療が発達した結果、病への恐怖の記憶は薄らぎ、それとともに病や死から解放してくれたワクチンや医療への敬意も薄れています。

その結果、いつのまにか多くの人が医療に対して「絶対」を強要する世の中になっています。「絶対安全でなければ許さない」「絶対救わないと許さない」。ある種の人が教育の敗北と呼ぶものです。

我々は漫画の世界に生きているわけではありません。突けばたちどころに病が治る秘孔など存在しません。

我々にとっては食事ですら異物であり、体内(実は体表)の消化器官には大量の免疫細胞が存在し、毎日異物である飲食物と戦っています。薬やワクチンが異物であることは当然の事であり、取り入れれば副反応が起きます。リスクが少なくなるように徹底的に試験されていますが、ゼロにはなりません。何しろ人間は食べ物を食べても死ぬ生き物です。

感染症か副反応か

COVID-19のワクチンを接種するか否かの判断は個人の観点でいえばリスクを天秤にかけることでしかありません。

接種しなければ感染するリスクがあります。

  • COVID-19に感染、発病した場合長期間、激しく苦しむことになりうる
  • 症状が悪化した場合も入院できるかすらわからないケースがあり得る
  • 若年者も入院できなければ死にうる
  • 治癒した後もQoLを損なう多くの後遺症が報告されている
  • 家族や同僚、友人に感染させ、彼ら彼女らに苦痛、後遺症、死を与える可能性が高い

接種すれば副反応で死ぬかもしれません

死亡率は多く見積もって10万分の1です。我々は日々死んでおり、接種による死者の増加は日々の死者の数に埋もれています。

公衆衛生は憲法理念の問題でもある

感染症の防疫には、がんの検診とは違う難しさがあります。

多くの人が抗体を持っていれば社会全体からその感染症を追い出すことが出来ます。しかし、十分に多くの人になるまでは社会が感染症に苦しむことになります。

「ワクチンを接種するかしないかは個人の選択の問題だ」

と言われます。おそらく、自由主義の一番先鋭的な発想でしょう。一方で感染症を防ぐには国民がスクラムを組むしかありません。しかし多くの人が「自由」を謳歌すれば感染症を防ぐことが出来なくなります。多くの人が病気にかかりますし、健康上の理由でワクチンを接種できない人は常に高いリスクにさらされることになります。

医療機関は定常的な患者に対応するのが精いっぱいで、爆発的な感染症に対応することなどできません。COVID-19によって医療関係者が疲弊しきっているのはSNSで知られている通りです。

「ワクチンを接種するかしないかは個人の選択の問題だ」

 は、日本国法に照らし合わせて正しい意見です。しかしながら、私はこれを我が国の憲法第十二条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 と、真っ向から対立する考え方だと思っています。公衆衛生とは我々全体に関する最大多数の最大幸福の追求であり、

「ワクチンは嫌だ」

と言った時に、それは他者の幸福追求の自由を大きく損ねかねない、ということは自覚すべきです。

突きつめれば、結局はロシアン・ルーレット

接種はロシアン・ルーレットです。副反応はあります。大きく見積もって10万人のうち1人が死にます。私もあなたも我々の家族や友人もその外れくじを引くかもしれない1人です。

我々は医療と公衆衛生の発達のおかげで、バタバタと人が死ぬ様を見ずに済んでいます。が、この安全は接種というリスクの上に成り立っているものであり、それは昔も今も変わりません。そして、大多数の人がそのリスクを受け入れて初めて公衆衛生が成立します。

COVID-19は、こういった「公衆衛生の統計性」「公衆衛生の全体主義性」を多くの人に可視化してみせた点で興味深いと感じています。

*1:こういう、ある種の後ろ暗い美的感動を見事に暴き立てたのが『博士の異常な愛情』のエンディングだと思う。あのシーンから迫ってくる、キューブリックの「あなたも美しいと思っているんでしょ」(あるいは「あなたが美しいと思っているものは醜怪なのですよ」)というメッセージは痛烈だった。

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