虐殺器官

伊藤計劃」という名前はリアルやらネットやらで耳にしていました。ツイッターではTLで繰り返し聞きますし、本好きの友人からもその名を聞きます。
ところが、この人の「メタルギア・ソリッド」がとんだ駄作でして、分厚い内容の割に中身のない話に頭を抱えてしまったのです。「XXの話をしよう→とても酷い目にあった→いい奴だった」の無限繰り返しかよ!と毒付いた物です。所詮ゲームのノベライズとはいえ、こんな作品を書く人の作品をこれ以上読んでよいものでしょうか。そういう迷いがありました。

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

主人公は特殊部隊のエージェントであり、米国にとって著しい不利益を振りまく国家の要人を暗殺するのが仕事です。911以降、外部からの直接の脅威に対して要人暗殺というアクションを取るようになったアメリカで、暗殺は誰かがやらなければならない汚れ仕事です。主人公はまさにその仕事をしています。
一方、彼の仕事の中にはアメリカにとって直接の脅威となる前にその芽を摘み取る仕事も含まれています。最近多いのが、内戦が極度の混乱状態に陥り、凄惨な虐殺が行われるようになった国での仕事です。それらの国の陰には、なぜか一人のアメリカ人、ジョン・ポールが関わっていました。彼が広報エージェントとして潜り込んだ国は、例外なく短時間で目を背けんばかりの虐殺が始まります。一方で、彼は度重なる秘密行動の裏をかいて何度も逃亡を企てていました。
アプローチを変えて、その男の恋人と見なされる女性への接近を開始した主人公は、しかし個人的な悩みを抱えていました。自分は母親を殺したのではないかという疑念です。母親は彼の任務中に交通事故に遭い、彼が病院へ向かったときには既に植物人間になっていました。彼はそこで母親の生命維持装置を止めることに同意したことが、母親を殺したことになるのではないかと考えています。
この小説は巧みな構成によって、読者を知らぬ間に血も凍るような無情なパラダイムに引き込みます。当初、描写が残酷なだけの、古くさいサイバー・パンクめいたSFに見えるこの物語は、中盤からゆっくりと回転を始めます。そして、母親の死と、ジョン・ポールは、読者が気づかぬうちにゆっくりと互いのまわりを回り始め、やがてきつく絡みついた二匹の蛇のように不気味な概念を紡ぎ上げます。
この小説の舞台では、人間の脳の解析が非常に進み、数百の機能モジュールを特定することができています。医師は主人公の母親の脳のどのモジュールが死んでいるかを示すことができますが、では意識があるのかというと答えることができません。
意識はどのモジュールにあるのか、それとも複数のモジュールの共同活動の結果なのか、だとしたら、それは特定の複数のモジュールなのか、それとも不特定の一定数のモジュールの共同活動の結果なのか。
ニューロンの活動と高次の意識活動のギャップは今でもよく認識されていますが、この作品では脳を複雑な機能を持った多数の機能モジュールの集合体と描くことで、より、このギャップを不気味な物にしています。
多数の機能モジュールが死んだ状態にある母親は意識を持っているのかいないのか。結論を出せないまま生命維持装置を止めることに同意した主人公は、その問題にとらわれます。そもそも、意識とは何なのでしょうか。脳の機能モジュールの活動結果でしょうか。魂の座は機能モジュールにあるのでしょうか。
もし、人間の高次の精神活動、たとえば良心とか、倫理観とか、順法精神と言ったものが脳の機能モジュールのファンクションにすぎないとしたら、それらは他の臓器と同様に体調や、ホルモンや、薬物その他の外的要因によって容易に姿を変えるのでしょうか。
400ページに迫るこの分厚い小説は、ゆっくりと時間をかけて、知らない間に読者をひとつの不気味な予想へと連れて行きます。倫理といった高次の精神活動が、生物学と折り合うのかと言った点については、ハックスレーの昔から激論が交わされていましたが、この小説はそう言った論の中の一番不気味なものを取り出して陽の下に晒しています。
序盤、「頭文字D」や「ときめきメモリアル」といったポップ・カルチャーからの引用めいたものがあるため明るい雰囲気すら漂わせる本書は、後半「ダーウィンの箱庭」*1等の通俗向け解説書の世界へと脚を踏み込みます。その変化がゆっくりとしているため、読者は自分が後戻りのできないリアリティに引きずり込まれていることに気がつきません。
後書きに「紛れもなく世界水準の傑作である」という言葉が引用されています。看板に偽りなし。
お奨めです。

*1:同時期に「良心を数式で表すことができた」という本を読んだことがあり、著者も読んでいると思われるが、タイトルを思い出せない

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