「ナナとカオル」

(このエントリは性的な話題を含みます。そういった話が嫌いな方は飛ばしてください)
かつてネットで読んだ文章*1によれば、プレイとしてのSMには一方的な加虐はありえないそうです。プレイとは対等なセックスのパートナーが合意のものに楽しむものであるからです。しかし、事実としてSMという関係は加虐側と被虐側にパートナーを分かちます。であれば、対等なパートナーが被虐を受け入れるためには、加虐側から与えられるものがなければならないというのがその文章の趣旨でした。結論から言えば、それは愛情でなければなりません。

ナナとカオル 1 (ジェッツコミックス)

ナナとカオル 1 (ジェッツコミックス)

ヒロインの千草奈々は、高校2年生。成績優秀でトップクラスの大学を目指していますが、八方美人過ぎて息抜きができないのが玉に瑕。ある日「教師から頭が真っ白になるような息抜きはないのか?」と問われて困ってしまいます。
一方、隣に住む幼なじみの杉村薫は絵に描いたようなぱっとしない落ちこぼれです。ちょうど奈々が先生から息抜きのことを聞かれたその日、あまりに勉強をしない薫を懲らしめようとした母親は、彼の大事な「おもちゃ」を入れた紙袋を奈々に「ちょっと預かって」と渡してしまいます。ふとしたことで紙袋の中を覗いた奈々は驚きます。出てきたのはエナメルのボンデージ・スーツ。しかもあろうことか、どうみても奈々のサイズです。出来心で試着してみた奈々はドジなことにスーツの鍵をかけてしまい、持ち主である薫に泣きつく羽目に。結局、薫はスーツを壊して奈々を助けてやります。
数日後、奈々は試験の成績がよかったことを教師から知らされ「いい息抜きを見つけたのか」と問われます。奈々が思い出したのはボンデージ・スーツを着て過ごした頭が真っ白になるような時間のことでした。
この作品は有り体に言えば、ヒロインのあられもない姿が売りの「エッチな漫画」です。成人指定はされておらず一般漫画扱いですが、まっとうな感覚の持ち主ならお子さんの目の届く本棚には置かないでしょう。
しかしながら、この作品には「エッチな漫画」として切り捨ててしまうには少々惜しいものがあります。グラマラスな奈々の体がビジュアルを飾る一方で、作者は虐げる側と虐げられる側の心を細やかに描こうとしているようです。

心の歪み

この作品に登場する二人は合意の下でプレイを行っていますが、だからといって決して同じ気持ちでプレイを行っているわけではありません。
奈々は優等生です。
すくすくと育った彼女は、朗らかで素行もよく、勉強ができて、おまけに陸上部と生徒会を掛け持ちしています。頼まれたら断れない、融通が効かないといった小さな欠点はあるもの、全方位どこから見ても死角のない良い子です。
しかしながら、最初の事件以降、彼女はMに興味を持ち始めます。奈々はテストの成績がよかったことを方便に、それを「息抜き」と呼びますが、薫とのプレイで与えられる恐れと安心、緊張と弛緩といったギャップ、それにプレイ中に感じる高揚感に強烈に惹かれるようになります。そしておずおずと、しかし繰り返し薫にプレイをせがむようになります。彼女のプレイに対する抵抗は少しずつ薄れており、3巻では苦笑しながらはっきりと自分を変態だと自覚しています。
しかも、奈々は自分がそのような嗜好を身につけてしまったことにみじんも後悔を感じていません。それどころか、普段、完璧な優等生でありつづけている彼女は、薫の前でだけは弱くてもいい、弱さを許されていると感じています。
やっていることは特殊ですが、ラブコメのヒロインとしてはそれほどめずらしくない性格設定かもしれません。
一方の薫は悲惨なほど救えない男の子です。以前は一緒に遊んでいた奈々とはいつのまにか大きな差がついてしまっています。ちびで風采が上がらず、着こなしも「いかにも」なだらしなさ。勉強もできず、帰宅部なので走ればすぐに息が上がります。友達とするのはアダルトビデオの話ばかり。唯一の趣味はSM本やグッズを集めて妄想に浸ることだけです。
奈々と並んで立ったときの薫の痛々しさは目に余ります。そして薫はそのことをはっきり自覚しています。彼は奈々のことが好きですが、だからといってどうしようもないことをいやと言うほど理解しています。隣の家に住んでいて同じ高校に通っているのに、奈々の生きている明るくて楽しそうな世界は自分からはとても遠いものだと感じ、はじめからあきらめています。
この、「ナナが好きだけど自分からは遠い」という気持ちは、薫の行動をぐちゃぐちゃなものにします。
薫は絶対に手が届かないと思っていた奈々が、誰にも知られていなかった自分の屈折した趣味におそるおそる踏み込んできたことに驚喜します。そして、やがては手の届かないところに去ってしまうだろう奈々を相手に、尊敬する大先生の本を参考にしつつ、倒錯的なプレイを試してみたいと思っています。
一方で、彼の奈々に対する気持ちはほとんど女神崇拝に近いものがあります。
薫は奈々を何度も縛り上げ、抵抗できないようにしてひどい言葉で嬲りたてる一方で、決して性的な接触をしようとしません。かろうじてヒップに触るくらいで、(きわどい描写はあるが)彼女の乳房や大事な部分には直接触れません。それどころか裸になれとも言いません。そのくせ、股間に通す縄には念入りに結び目を入れるという酷さです。
彼の心の中にはドロドロした願望とプラトニックな気持ちがきわどく同居しています。

二人の世界

こうして作り上げられた二人の関係は、まともな人には理解できないものです。奈々がSMプレイに身を任せることは、奈々の友達には理解できないでしょう。薫が奈々に手を出さないことは、薫の友達には理解できないでしょう。そして二人とも、周囲から理解されることなど始めから望んでいません。
当初、日常から逸脱した行為にドキドキし、「息抜き」を言い訳にプレイに臨んでいた奈々ですが、プレイの数を重ねるにつれ、はっきりとこの関係の心地よさを意識するようになります。ボンデージ・スーツや荒縄、首輪、開口器などの生々しいグッズで虐げられながら、奈々は自分が女であることを意識し、自分の弱さを認識し、そして「カオルと二人きりのときには弱くてもいいのだ」と考えています。なによりプレイの相手としての薫を全面的に信頼しています。奈々はそもそも薫が自分に肉体関係を強いる可能性を考えてすらいない節があります。
彼女にとって、薫に虐げられることは心の安寧と直結しています。
一方、薫のほうは悲壮としか言いようがありません。
彼は大好きな奈々と二人っきりの時間を持つことに成功しますが、それは普通の男子があこがれるような甘いデートではなく、ドロドロのSM行為でした。そして、その間も彼は自分が奈々に肉欲を抱くことを戒め、ひたすらに大先生の著作に記された形式美を再現しようとします。それは美しい縄がけであり、計算された非情な会話です。その一方で、彼はプレイが奈々を傷つけないよう、常に時間を惜しまず器具の手入れを行っています。
奈々を聡明な少女とする一方で、薫を単なる加虐嗜好者としなかった設定がここで実に活き活きと機能します。
外の世界では奈々は誰もが褒める完璧な優等生であり、おそらくはそうであるよう自分に努力を強い続けています。一方で薫はもう、自分は駄目だろうと人生についてあきらめているようです。彼は日常において、単に時間が過ぎるのを待っているだけの無為な存在です。
ところが、二人の世界ではこの風景が見事に逆転します。薫は奈々とのプレイを完璧なものにするためにあらゆる努力を惜しまず、自分を押し殺してその場に臨みます。一方で奈々は強がることをやめ、プレイを通して自分の内面を見つめ、弱さを受け入れ、ひたすらに受け身で薫の優しい言葉を待ちます。
描かれたのが虐げる側と虐げられる側の社会的な立場の逆転だけだったなら、この作品は単なる読者サービス漫画に終わったことでしょう。しかし心の内面の逆転をも描いたことから、「ナナとカオル」は紹介に値する漫画になっています。そして何よりこの作品では、虐げる側が虐げられる側に惜しみない愛を注いでいます。

展開に不安はあるが、先が楽しみ

日常とSMプレイをしているときの強烈な不連続は、二人の関係を余人には理解できないものにしています。ですから、この関係は秘密であるべきなのですが、どういうわけか作者はあっさり第三者である館涼子を二人の間に引き込んでしまいます。しかも彼女はけろっとしていてSM的な耽美とは無縁に見えます。
この漫画はどこに進むのでしょうか。自分の書いた文章を読み返してみましたが、やや期待しすぎている気がします。そもそもエッチな漫画に期待する方向を間違えているかもしれません。作者は単にエッチな漫画を書いているだけであって、深い意図は無いのかもしれません。
たとえば、薫は当初「いやになったらいつでもやめられる」というルールを提示していましたが、途中で破っています。これはソフトSMにおいては重大なルール違反のようです。一つの例外だけで全体を語ることは戒めなければなりませんが、これは作者はそれほどまじめにソフトSMを描きたい訳ではない証拠なのかもしれません。
このように作品には粗があるものの、せっかく特殊な精神世界を描いているのですから精神的な面を掘り下げてほしいと願ってしまいます。サービス・シーンの奈々のあられもない格好もいいのですが、くるくる変わる彼女の表情が輪をかけてすばらしいです。そういう絵を見ると、やはり私は心の描写に期待してしまいます。
4巻では、二人はとうとうスパンキングまでやってしまいます。気持ちをえぐるような叱咤を浴びながら尻を打たれて、奈々はすっかり参っているように思えます。この後は、どんな安寧が彼女にもたらされるのでしょうか。
展開に不安が少々ありますが、先の楽しみな漫画です。
蛇足ですが二人の名字、千草と杉村はどちらも加虐小説の大御所ですね。また、参考にした解説書を通して、アニメ「さよなら絶望先生」の千里ちゃんや「化物語」の神原後輩とつながっているようです

*1:たぶんソフトSM系のページ

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