印刷技術の商業性

断言できる理由、それは紙の本が"印刷"という技術だからです。そして、「紙の本に限ってそれは無い」と錯覚しやすいのは、「紙に印刷する」という技術があまりの大発明であったからです。あまりに長く親しまれすぎて、それが技術だと認識できないのです。

技術の中には、後継技術が数千年にわたって出てこないものもあるので、断言するのは危険だなぁ*1。たとえば。船。水が入らないようにくりぬいた木という技術は、構成要素が金属になっても、ホバークラフトや水中翼船といった新技術に負けていません。新技術が優れていても商業的に旧技術に勝てるかどうかは不明です。
結局は商業性なのです。電子リーダーの商業性が圧倒的なら紙の本が絶滅に近い状態に追いやられる可能性はあります。読書は文化だから大丈夫?寝言は寝ていってください。日本人がどれだけ文化を捨ててきたか考えてみろってんだ。
電子リーダーのような非紙技術が印刷技術に商業的に勝てるかどうかにはいくつか考えるべき要素があります。たとえば、日本では150ページ程度の文庫本なら2-300円で流通させることが出来ます。半導体メディアは既に文庫数千冊程度のテキストを収納できますので、本に書いてある情報であれば、コピー可能な形態であれ、不可能であれ、同価格かそれ以下で流通出来そうです。ダウンロードならもっと安いか。漫画のような画像書籍の方が流通コストが高そうですね。
問題はリーダーです。紙と同程度の表示品質の表示装置はまだ現れていません。現れたとして2−3000円で出回るでしょうか。出回るかもしれません。そうすると供給者はメディアもプレイヤーも先進国かBRICsですね。後進国では紙が支配的かもしれません。Amazonの商圏の1/3が紙主体なら電子リーダーが紙の書籍を駆逐するというのは難しそうです。電子リーダーは無人島に流されたとき無力です。そう考えれば、やっぱり先進国だけのムーブメントになりそうです。
紙をめくる利便性に電子リーダーが追いつくかどうかはきわどいなと思っています。ムーアの法則の神通力は消えかかっています。現在プロトタイプの存在しない快適さが電子技術でどれほどお手軽になるかどうかは予断を許さなくなってきました。
リーダーは現在の本に関するライフルスタイルをぶっ壊すほどの利便性を提供するでしょうか。電車の中で片手で読める電子リーダーが存在しないとA4/B5雑誌の置き換えは難しいでしょう*2。蓄積量に関しては、都市生活者に関してはすでに現在の電子媒体で紙をしのいでいると思われます。私は今、明治百話 (下) (岩波文庫)を読んでいますが、読んだ後捨てる予定です。残念ながら私の甲斐性では読んだ本をすべて手元に置くことは出来ません。ある意味、今年やっている濫読は手元の本を捨てるためにやっているともいえます。
電子リーダー社会になれば、こんなつらいことはなくなるでしょう。何十年前に読んだ本でも、「あの本には何とかいてあったかな」と調べることが出来ます。
電子リーダーが本を駆逐するかどうかは私は今は判断できないと思っています。先に述べた理由で電子リーダーがどこまでも進歩するという楽観論に与するのは難しいので、紙の本の世の中が残る可能性はあると思っています。

電子リーダーを推す政府

視点を変えると電子リーダー以外を禁止する政府と言うものが現れるかも知れないとは思っています。私が思い浮かべているのは中国ですが。
自国に入ってくるすべての電子トラフィックの監視、統制をやってる国ですから書籍を管理できる装置があれば飛びつくでしょう。すべての紙の文書を燃やし、政府公認のリーダー上で政府公認の書籍を読むこと以外禁止してしまえば、管理はとても楽になります。リーダー内の晶片がリアルタイムで違反文書を読んでいる反政府分子を検出してくれます。
便利ですよね。

*1:話がそれるが、100%とか絶対とか0とかを力説する風潮を、私はひそかに統計的潔癖性と呼んでいます。差別的な語感なしに蔑視できる便利な言葉でしょ。あ、蔑視って書いちゃった

*2:ただし、そういう雑誌がリーダー非互換性のために消える可能性は否めません

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