学門/王道 人生/決定論

学問に王道無し

このことわざで言う王道は、いわゆる正しい道じゃなくて、「王専用緋毛氈」を敷いた楽な道がないってことです。今風に言えばレッドカーペットですか。学問にVIP待遇はないのです。だから、王様と言えども庶民と同じように勉強しなさいよと。まして庶民のわれわれに勉強をうまい事ちゃっちゃっと済ます方法はないですよと言っているわけです。一生懸命勉強しなさい。
最近、ちょっと気になる事がありまして。ネガティブ系書き込みを読んでいると、「努力しなさい」という助言にぶちきれ反応する人が多いです。その人たちは「努力すれば報われる」と言うのは宗教でしか無いと言います。そんな奴等の言う事を聞く事は無いと言います。「努力したら報われる」と言うのは、多くの人を罠にはめるための悪意ある文化だと。
そな、あほな。
と、思うのですが、言っている本人たちは至極まじめなようです。そこでさっきの気にかかる事に戻るんですが、人生を決定論的に捉えている人がものすごく多くないですか?「勉強しろ」「努力しろ」と言わると、「勉強・努力が報われる保証は無いから勉強も努力もしない」というロジックが透けて見えるのですが、私の錯覚でしょうか。
学問どころか人生だって王道はないし、庶民の道も非決定論的なんですよね。「数学なんか勉強しても実生活で使わない」とはよく聞く言葉ですが、「数学的思考ができる人のほうが、高収入の仕事に就く可能性が高い」と返すと、「そんな仕事に就ける保証は無い」と噛み付かれそうに思う、Neatな午前四時。

人生に決定論無し

人生は決定論的に進みません。いくら勉強しても、それが身に付くとは限りません。いくら身に付いても、それが活かされるとは限りません。なにを勉強してどの職に就けばいいか。国が上り坂だったころは個人の立身出世が社会をより豊かにしていくようなわかりやすい構図があり、誰もががむしゃらに生きることができました。多少ドロップアウトしても膨張社会の中では幾らでも別の仕事を探すことができます。が、国が下り坂にある今、生きることがたぶんにサイコロ博打的になりつつあります。サイコロ博打に才能は必要とされません。
ドロップアウトして、毎日苦しい目に合いながら、ふと「俺は何を間違ったのだろう」と思い返したとき、致命的な間違いを思い出せない人はたくさんいるんじゃないでしょうか。私は個人の無誤謬性は、諸要因の最後に認める口なので、あれこれいいわけを聞くのは嫌いです。社会が悪いとか。が、率直に言って運が悪かっただけの人はたくさんいるように感じます。運が良かっただけの人もたくさんいる。
一時期、あるフリーターが発した戦争待望論が話題になっていました。もっぱら叩かれる方面でですが。私も戦争待望論になど到底与することはできません。が、「こいつは戦争になっても自分だけは生き残れるつもりかよ」「戦争でほかの奴が死んでこいつが正社員になれるとでも思ってんのかよ」という罵倒を読みながら、頭の片隅ではそのフリーターは人生が非決定論的である事をよく理解しているな、とぼんやり考えたのでした。戦争待望論とは、要するに「もう一度みんなのサイコロを振りなおせ」という叫びでしかありません。イカサマがあったからではなく、自分の目が悪かったから。自分が唯々諾々と悪い目を受け入れなければならないなら、なぜ、もう一度サイコロを振れと言って悪いのか。
結局は堂々巡りです。サイコロの目に細工はできません。戦争もだめ。いい賭場に通えるよう一所懸命努力するしかないのです。だって人生だもん。犬畜生の一生じゃない。

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