週末向けの妄想

松浦氏の訳本には、繰り返し人間原理の話が出てきます。人間原理とは、ちょっと表現が難しい上に私もよく理解できていない可能性がありますが、かいつまんで言うとこういうことです。

人間が見ることが出来る宇宙は、人間が居そうな宇宙だけである

たとえば「宇宙の物理的な状態や条件がこれほどシビアに人間向けに調整されているのはおかしい」という疑問を持つ人が居ます。宇宙は他の条件でも良かったのではないか。これほどの幸運を単なる幸運と考えていいのか。しかし人間原理は「幸運も何も、あなたはあなたが居ることの出来る宇宙しか観測できないのだから、この宇宙があなたにぴったりなのは当たり前」と開き直って見せます。つまり他の宇宙の可能性だってあるかもしれないが、そうならなかった偶然に思いをはせても仕方がないよ、と。居られる可能性のある場所に居る確率が高いのは当たり前ですから。
これをかなりいじったのが「終末論法」です。

世界の終焉―今ここにいることの論理

世界の終焉―今ここにいることの論理

この本で作者が何を言いたかったのか。私にはとうとうはっきりわからずじまいでした。しかし、いろいろ考えてみるに作者は「終末論法」という考え方の周辺の話を列挙して紹介したかったのではないかと思います。

我々が、人類には長い未来があると信じきっているとしよう。そうすると、あなたも私も、これから生まれる人類の中で例外的なほどに最初のほうにいると認めざるを得なくなる。

(本文12pより引用)
こう考えるより、これまで生まれた人類のたとえば10%、つまり今生きていてこれからおきる大崩壊を目の当たりにする哀れな最後の人類に属している*1と考えるほうが自然だというのが終末論法です。
筆者は終末論法とは「危険度の評価の精査」を行うためのものであって、それ自身は何かの危険性を予言しないといっています。つまり、ある危険が存在するとして、終末論法ゆえにその危険性を正しく理解できるというのです。
変なの。
フロンが減り、オゾンホールが拡大しているならば終末論法による精査を待たずとも危険ではないでしょうか。二酸化炭素が増え、地球の気温が上昇し、気象に異常が発生し始めれば、終末論法による精査を待たずとも危険ではないでしょうか。偶発核戦争や放射能汚染は終末論法による精査を待たずとも危険ではないでしょうか。
終末論法には難解ないいまわしや高度な統計が持ち込まれていますが、それでこの論法が反証可能になったわけではありません。本書を読むと多くの反論に対してぐにゃり、ぐにゃりと受けていますが、かっちりとした反証方法を提示しているわけではありません。
終末論法とは科学ではないようです。
終末論法は科学ではなく、思考のための枠組みのようです。しかも人類に訪れる危機の話は終末論法無しでもまったく何の問題も無くやっていけます。終末論法は単に脳の中でエネルギーを消費して二酸化炭素を余計に排出し、人類の終末の背中を後押ししているだけではないでしょうか。
そんな読後感を持ちました。

*1:人口爆発が起きているので、今地表に居る人の数は、有史以来の人類の総数の中でかなりの割合を占めると考えていい

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