方法論なき科学

meinekoの日記経由、幻影随想: やけにインテリジェントデザイン関連の検索が多いと思ったらからのリンク、産経の記事:

「ところで」と、スタンは表情を改めて言った。「ある事象が存在するのに、自分の考えと違うからといって無視すれば、それは科学といえるかい?」

「テキサス中部パラクシー川のほとりに恐竜と人間の足跡が一緒に化石となって残っている岩がある」ってんで見てきた先生の言葉です。だから進化論にはほころびがあるんだそうな。
科学的思考が出来なくても理科の先生くらいなれるという見本です。先の、「ある事象が…」というのは普通はそっくりそのまま疑似科学の信者たちに投げられる言葉です。大抵の疑似科学信者は、明確な事実に目を背けて自分の構築した妄想から出てきません。では、先の先生が言うように進化論には重大なほころびがあるのでしょうか。
否、量が違いすぎます。
大抵、科学の主流を成す学説は膨大な根拠と科学的な方法論による解釈に裏打ちされ、日々浴びせられる反論に耐え抜いてきています。一方、疑似科学が拠って経つのは通常極めてわずかな根拠と信じ込みであり、大抵の反論は無視することでその日その日を生き延びています。
重要なのは多数決ではありません、科学的な方法論で解釈を行っているかどうかです。
スタン・カーター先生は、上の言葉を逆に自分に投げかけ、彼我の証拠の量の差を素直に受け取ると共に、いろいろな事実を科学的な方法論で判断すべきなのです。それが出来ていません。科学で本当に重要なのは考え方なのに、それを理解せずに教科書を丸暗記して育つから、ちょっと整合性の怪しいデータが出てくると足元が怪しくなります。
町の変わったおじさんが新聞に出るのはよくあることです。しかし、以下のようなことを新聞が書くようではいけません。

はっきりいえるのはしかし、宗教との関連を否定し、あくまで「科学的に」進化論の問題点を指摘する彼の態度と言動が、現代の反進化論運動の戦略と軌を一にしているという点だ。

これが科学的だというのですから笑わせます。

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