昨日のコメントで少し話が出ましたが、ジャガールクルト社のAtmosという置き時計があります
この時計、ねじを巻かなくても動きます。電池も要りません。光も必要なく、水を入れる必要も振り回す必要もありません。引っ張る錘もありません。交番磁界にさらす必要もなければ、原子力電池も燃料電池も風も無用です。ただ、平らな場所においておけば勝手に動き出してカチコチと時を刻みます。
この時計に必要なのは朝晩の温度差です。時計の中には小さな太鼓状の密封容器がありあります。この容器は密封されています。そのため、
- 温度が上がる
- 内部の圧力が上がって太鼓の皮の部分が少し膨らむ。
- 温度が下がる
- 内部の圧力が下がって太鼓の皮が少しへこむ。
このような動きをします。この太鼓が室温差を動力に変換します。太鼓の皮のわずかな動きを拾って内部のぜんまいをまき、それを動力にして時を刻む仕掛けなのです。動くの必要な温度差は実に1度。24時間空調完備していない限り、確実にこの時計は動きます。初めて見たのがチューリッヒの空港で、親父に買ってやろうかどうしようか死ぬほど迷いました。買いませんでした。
と、まぁここまでが話の枕ですが、あとはあまり関係ない話です。たまに聞く、永久機関の話。
永久機関
永久機関、というのは永久に動く機械のことではありません。このものすごくわかりやすそうな言葉には厳密に科学的な意味がつけられていて、それ以外の意味で使ってはなりません。こういうことを書くと「また、そんな事言って。科学だけがえらいんじゃないんだから」と思う人も居るかもしれません。しかし、永久機関と言う言葉は熱力学の進歩と切っても切れない間柄にあり、熱力学の理解なしに永久機関を語ることはできません。そしてもうひとつ、この言葉は科学用語としては珍しく悪意のこもった言葉です。
永久機関とは愚者の機械なのです。
永久機関の歴史は詐欺師の歴史です。「無から動力を得る発明を行った」という触れ込みで数多の永久機関が生み出されました。無から動力を得る機械があれば、産業で莫大な富を築くことができるでしょう。そのため、多くの人が甘い言葉に釣られては苦い目にあうことになりました。
科学は「動力を得る機械」を否定しません。しかし、どんなものからでも動力を得られるわけではありません。やがて熱力学の理解が進むにつれてエネルギーを得ることが出来ない範疇がはっきりしてきました。そうしてこういった不可能な範疇からエネルギーを取り出したと主張する機械を総称して永久機関と呼ぶようになりました。もともとは永久機関は実現可能かも知れないと考えられていたのですが、その研究が進むにつれてそうではないとわかったのです。
「永久機関」と呼ばれるものは、すべて熱力学の法則にそむいています。そしてそれには二種類あります。
第二種永久機関
詐欺としてはこちらのほうが一枚上手です。「重力エネルギーをとりだすことによって」「海水の温度エネルギーを取り出すことによって」「地磁気のエネルギーを取り出すことによって」無限に動くと称する機械がたくさん作られました。詐欺として一枚上手だというのは、説明を聞くと思わず納得してしまいそうな機械がおおいからです。「発明」された第二種永久機関の例をコレクションすれば目くるめく幻想の世界にどっぷりとつかることができます。
典型的な第二種永久機関は次のようなものです。
たとえば海水の温度が25度としましょう。そうすると、この海水は25度に相当する熱エネルギーを持っています。
ここまでは事実
そこで、この熱エネルギーを取り出してやるのです。そうすると海水の温度が下がりますから冷えた海水を排水してやります。こうして海水から温度エネルギーを取り出すことで、無限の航続距離を手にすることが出来ます。
すばらしい。しかし嘘です。これは熱力学第二法則に反します。
熱力学第二法則(エントロピー増大則)とは何か、説明するのは難しいです。しかし、誤解をおそれずにあえて言ってしまえば、「のぺっとしたものからはエネルギーを取り出せない」ということです。逆に言えば、エネルギーを取り出したければのっぺりとしていない、何らかの差が必要になるということです。少し例を挙げてみましょう。
- 温度差があればそこからエネルギーを取り出せる。
- 落差があればそこからエネルギーを取り出せる。
- 圧力差があればそこからエネルギーを取り出せる。
どうでしょう。さっきの船は温度差も落差も圧力差もない海からエネルギーを取り出そうとしました。これは熱力学第二法則に反します*2。
第二種永久機関は熱力学第二法則に反しており、実現できません。
永久機関を礼賛する人
知的興味から来るコレクションならともかく、たまに真顔で永久機関を喧伝する人が居ます。こういう人は
- 科学よりも詐欺に興味がある人
- 科学者を信じず、詐欺師を信じる人
- 科学を理解せず、自分の妄想を信じる人
のいずれかです。気をつけなければなりません。
太陽の恵み
ごくまれにですが、「地球の自然現象は無からエネルギーを得ており、それゆえに熱力学の法則は間違っている」と主張する人が居ます。私は進化論を否定するキリスト教徒のページでこの意見を読んだことがあります。彼等はどこからもエネルギーを得てなくても風は吹き、雨が降り、波は寄せるといいます。
この主張は間違っています。
熱力学の法則はすべて「閉じた系」の話です。地球は太陽から熱をもらい、宇宙空間にそれを逃がす「開いた系」です。ですから熱力学の法則に反していないのです。
昼、太陽から熱をもらい、夜、それを宇宙に逃がす。それだけのことで海水が蒸発し、雲となり、低気圧となって風を起こし、雨を降らします。雨は川を作り、大河となって海に流れ込みます。我々人類は昔からそのほんの一部を利用してきました。かつては風を帆にはらんで大洋を渡り、やがて川をせき止めて発電するようになりました。太古より雨と日光によって育まれた植物は、今は化石燃料となっています。
人類が利用しているのは地球に降り注ぐ莫大な太陽エネルギーのごく一部でしかありません。そして息を凝らして静かにすれば、雲として、風として、雨として、寒暖の差として、我々の周りでもそのエネルギーを感じることが出来ます。
Atmosは身近な太陽の恵みをほんのわずか利用するだけでどれほどすばらしいことが出来るか見せてくれます。これで値段が身近なら言うことないのですが。
*1:原子力エネルギーは古典的な目から見ると第一種永久機関なのですが、当然原子力を永久機関と呼ぶ人は居ません。なぜなら、相対性理論によってエネルギーと質量は互いに変換可能だと理解されるようになったからです。原子力エネルギーは質量をエネルギーに変換します。変換された質量は消えますので、全体で見るとエネルギー保存則に反していません。
*2:表層の海水と深層の海水には温度差があります。これを利用すれば安全面はともかくとして熱力学第二法則に反せずに船を動かせるかもしれません。もちろん、永久機関ではありません。アーサー・C・クラークの短編SFには地上の温水池と深海の間の温度差で発電を行うシステムを扱うものがあります