自分との対峙

米澤穂信古典部シリーズは、荒っぽいまとめ方をすると「地方の高校に通う主人公が、彼と『古典部』の仲間の周辺に起きる些細な謎を解く娯楽小説」ということになります。荒っぽいにも程があると思いますが。
先日書いたように、作者はミステリをベースに小説を書いており、特に古典部シリーズはその中でも推理小説という位置づけになっています。『愚者のエンドロール』がその見かけと異なり、がちがちに固められた背景を元に構築されていることは先日書いたとおりです。あの小説は作者の頭の中に構築された世界を、読者にとって興味深く面白いように、注意深く切り取られたひとつの視点で表現されています。
さて、この古典部シリーズ、ファンはよく知っていることですが最初の2冊と後に続く巻にギャップがあります。最初の二冊、『氷菓』と『愚者のエンドロール』は角川のライトノベル読者向けミステリシリーズとして発行されています。これが商業的に大失敗し、シリーズ毎同二作は消えてしまいます。ところが、作者の能力を惜しんだ方が東京創元社に紹介。ここから発表された『さよなら妖精』が高い評価を得ることで、前二作も再評価されるに至っています。その後、復刊された二冊の売れ行きは好調で、要するに最初の失敗は作品の問題ではなく、角川のビジネス上の間違いからきいているというのが今の評価だとか。
そういうわけで、古典部の最初の2冊と後の作品には時間的なギャップのほか、ビジネス上のギャップもあります。
最初の二作は作者のデビュー作およびデビュー二作目であり、文字通り米澤穂信が己の評価を世に問うための作品として発表されています*1。それに対して他の作品は人気ができてた作家の看板シリーズの続巻として書かれています。つまり、前二作がそれらだけで勝負をかけていたのに対して後の作品は未来へと繋がる作品となっています。
そのせいかどうか。
最初の二作と後の作品には大きな作風の違いがひとつあります。それは主人公折木奉太郎の態度です。省エネを掲げる高校生である彼ですが、進学直後の『氷菓』の冒頭で友人の福部里志と高校生活について話し合います。その結果、里志から「君の生活こそ灰色だ」と指摘され、自分の送りたい生活をみつめることになります。里志は灰色であることを決して悪く言っておらず、奉太郎も青春の炎を燃やさず他者と積極的に関わらない自分のポリシーを好んでいます。しかし、一方で彼は他者が熱く燃える姿に心乱されます。
氷菓』は、「自分はこれでいいのか」と揺れる奉太郎が自分の足場を取り戻すまでの過程を描いた作品です。千反田えるの登場で激しく揺さぶられた彼の生活は、えるの叔父である関谷純の青春の叫びに陽の光をあてることで、元の安寧を取り戻します。
また、第二巻は奉太郎が自らになんらかの能力があるのだろうかと、問う物語です。かれは氷菓事件の解決を運でしかないと切って捨てますが、入須冬美に説得されて自分の能力を信じてみようという気になります。その後挫折がありますが、彼は最後に敵の前で、自分に対して自分が能力を持っていることをはっきりと証明して見せます。
対して、『クドリャフカの順番』は、奉太郎が自分と向き合う話ではありません。これは、様々な想いの交錯する中、部員の期待に応えて彼が難問を解く物語です。その過程で彼自身が自分の無知を垣間見るシーンがあるものの、これはその最後の章のタイトルが示すように、新たな困難へ向けての打ち上げでしかありません。
続く『遠まわりする雛』『ふたりの距離の概算』では奉太郎が古典部の面々への理解を深めていく話になっています。
今後の展開はわかりませんが、他者との関わりの中で自分と向き合った主人公は、今、その他者と向き合っています。彼がやがて外の世界と向き合うことも示唆されていますが、それは千反田さんが泣く結末になりそうでちょっと心配です、ってのは蛇足ですな。

*1:最初はWEBで発表されている。要するに時間をかけ、練りに練って発表された作品