遠まわりする雛

米澤穂信古典部シリーズ第4弾は短編集です。主人公の高校進学直後からの数ヶ月を描いた『氷菓』、夏休み最後の数日を描いた『愚者のエンドロール』、文化祭の3日間を描いた『クドリャフカの順番』は、それぞれ大きな事件に関わった時間を描いていましたが、短編集では小さなエピソードを中心とした短い時間を扱っています。短編集全体では入学からの最初の1年間の古典部の4人の心模様を扱っている、静かな作品です。

遠まわりする雛 (角川文庫)

遠まわりする雛 (角川文庫)

収められている短編は全部で7編です。

  • やるべきことなら手短に
  • 大罪を犯す
  • 正体見たり
  • 心当たりのある者は
  • あきましておめでとう
  • 手作りチョコレート事件
  • 遠まわりする雛

いずれも謎解きの体をもち、実際ページ数の多くが謎に迫る構成です*1。しかしながら読んでみると分かりますが、短編集の主題としては4人の気持ちの変化、特に主人公折木奉太郎とヒロイン千反田えるの気持ちの変化を扱っており、静かに時間が流れる古典部の一年間が綴られています。
どちらかというとファンへのサービスであり、この本一冊だけ読むことはお奨めできません*2

おしゃべりから好意へ

さて内容紹介と行きたいところですが、何しろファンサービスと言うこともあって、シリーズ全体のネタバレ無しに書くのは難しいです。ちょっと覚悟して読んでください。
時系列順に並んでいる作品群ですので、頭から順に紹介しましょう。

やるべきことなら手短に

折木奉太郎古典部入部直後をあつかった作品です。省エネを心がけ、灰色の生活に臆することなく無為に高校時代をやり過ごそうとしていた奉太郎ですが、千反田さんが同じ部に入ってきたことから、幾分の揺さぶりを受けます。自分が何らかの揺さぶりを受けていることを意識しつつも、必ずしもそれを嫌だと思っていないことに当惑している様子がよくわかります。
放課後に奉太郎が一閃させた『推理』の見事な腕前が光りますが、その後味の悪いこと。奉太郎自身が当惑するその後味の悪さを『千反田さんがいる古典部という状況になれていないからだ』と解説する福部里志が美味しい役所を演じています。

大罪を犯す

普段ほとんど活動していない古典部のある日の放課後を切り取った作品です。里志を追いかけてきた伊原摩耶花がほほえましいです。
誰も泣いたり傷ついたりしない謎を解いた奉太郎は、読書へと戻っていくのですが、その直前、ふと千反田えるという女の子について考えてみるシーンがあります。まだ奉太郎が千反田さんを強く意識せず、友達としてどんな人なのか少しずつ理解している頃の話。

正体見たり

氷菓事件』解決後、千反田さんが部員の労をねぎらうために企画した温泉旅行で、一行は幽霊事件に出くわします。例によって好奇心を小爆発させた千反田さんに押し切られる*3ように事件と向き合った奉太郎は、きちんと問題を解いて見せます。しかし、この問題、知らなければ良かったたぐいの事件でした。
起と結が強く結びついているこのこの作者らしい作品です。枯れ尾花だと知らずに残しておいた方がいいものもあるのではないかと冒頭考える奉太郎。彼は千反田さんの依頼通り、幽霊事件が枯れ尾花にすぎないことを証明するのですが、それは彼女を却って悲しませることになります。
「だったら謎を解明しろなんて言うなよ」
とは、奉太郎は思いません。悲しそうな千反田さんを見て、自分はこうなると知っていたはずなのにと唇を噛みます。
この作品は二人の関係性のターニングポイントとなっているようで、子細に読むと千反田さんの奉太郎への態度も少し変わっています。氷菓事件の解決で彼への信頼が高まっているだろう事は想像に難くありませんが、どうやら横に居るだけで楽しいといった気分になり始めているようです。

腕を組んだ俺のそばで、千反田が何を思ったのか俺をまねて腕を組んでいた。

俺は居間を出る。少し落ち着いて考えられる場所があるといいんだが。後ろから千反田がついてくるのがわかる。来るなと言おうかと思ったが、アイディアが浮かんだ。昨日の温泉に行こう。振り返ってそれを千反田に提案すると、千反田は微笑んで頷いた

温泉への道中、俺は黙って考えをまとめようとする。その様子を察したのか、千反田も黙っていてくれた

露天風呂まで来た。別れ際、千反田が言った。
「一緒に出ましょうね」
返事が出来なかった。

ほほえましいことです。奉太郎はラノベ主人公ほどではありませんがドレッドノート級の朴念仁なので、戸惑っているだけで、まだ自分からアプローチしようなんてこれっぽっちも考えていません。

心あたりのある者は

『女帝事件』『十文字事件』解決から少したった11月の頭の古典部部室が舞台の作品です。奉太郎の探偵としての能力を褒めそやす千反田さんですが、奉太郎としては、過大評価は我慢がなりません*4
彼は推理なんていい加減なもので、あくまで運でしかない。証明してやるから何でもお題を出せと言います。楽しそうにそれに応じる千反田さん。放課後の校内放送から始まった推理はきな臭い方向へと進んでいきます。
基本的には放課後の他愛もない会話なのですが、少し寒くなってきた季節、誰もいない部室で机をはさんでなにやら話し込んでいる二人。青春ですねぇ。

あきましておめでとう

時は流れて元旦。奉太郎のミスから納屋に閉じ込められてしまった奉太郎と千反田さん。大声を上げることも出来ず、静かに脱出しなければなりません。頼みの綱は福部里志伊原摩耶花の二人。さて、無事脱出なるか。
父親の名代で神社に挨拶に来た千反田さんは、暗い納屋の中に奉太郎と二人で閉じ込められたことで誤解を受けることを恐れます。彼女は奉太郎が不埒に及ぶなど露とも思っていませんが、世間は誤解するだろうと考えます。
普段から千反田さんのことを豪農のお嬢様などと、心の中で気楽に呼んでいた奉太郎ですが、安穏とモラトリアムを過ごしている彼は、千反田さんが自分と少し違う世界で生きていることに気づきます。

ふと、ほんの一瞬だけ、それをさみしいことのように感じた。

この頃既に、面倒くさがりのくせに、千反田さんに救いの手を伸ばすときだけは躊躇しなくなっています。知らず知らず、ということろでしょう。
一方、千反田さんにもさらなる心境の変化らしきものが。冒頭、奉太郎に初詣の誘いの電話をかけたときのシーン。

今度は、はにかみのような気配。千反田は、少し声を小さくした。
「……私も、ちょっと、着物を見せびらかしたいんです」

いくら仲がよくても、友達でしかない男の子に着物を見せびらかしたいとは思いませんよねぇ。伊原摩耶花のアルバイト巫女姿で吊っておいて、本当の目的は着物を見せたいと。いじらしいです。この着物に対する奉太郎の反応も良かったです。

手作りチョコレート事件

2月。のらりくらりと交際要求をかわし続けた福部里志に対して、伊原摩耶花が手作りチョコレートによるリベンジを図ります。楽しげに協力する千反田さん。しかし、チョコレートは何者かによって盗まれてしまいます。
奉太郎、成長したなぁと感じさせる作品です。10月の『クドリャフカの順番』では最後の最後に、ものの見事に人の心を読めない人間っぷりを披露した奉太郎ですが、この事件ではいかにして千反田さんを悲しませずに解決するかに心を配ります。そして解決後、人が表には出さない気持ちに思いをはせる奉太郎。
この一編は、『クドリャフカの順番』で少し描かれた里志と摩耶花の関係を説明する作品になっています。のらりくらりとかわし続けながらも、心の底では摩耶花を大切に思っている里志。それを知りながらも、待つことをつらく感じている摩耶花。まぁね、里志が考え過ぎなんですけど。かつて自分が失敗しているだけに摩耶花を傷つけるのが怖いんでしょうね。
千反田さんからチョコレートをもらえなかった奉太郎には同情します*5。はい。

遠まわりする雛

奉太郎と千反田さんの今後の関係を決定的なものにする、書き下ろし短編。
春休みをのんびりと過ごしていた奉太郎の元に、千反田さんから電話がかかってきます。地域で行う雛祭りに手違いがあって人が足りないので、傘を持ってくれないかと。1年前ならどう考えても一度は断るシーンですが、もはやそんな描写はありません。というか、ちょっと気分が乗らないって言ってみただけです。変わったよねぇ。
例によって奉太郎視点の落ち着いた描写で進む淡々とした作品ですが、作中、彼は決定的に認識してしまいます。ああ、自分は千反田えるという女の子が好きなのだ、と。そして、それを口に出すことをはばかる彼。理由は書かれていませんが、それは気恥ずかしいとかではなく『あきましておめでとう』で描かれた距離感から来るものなのでしょう。
千反田さんの心象も印象的でした。将来、勉強してこの土地に帰ってきて何かの役割を果たしたいという千反田さん。

「わたしはここに戻ることを、嫌だとも悲しいとも思っていません。そうではなく、北陣出でそれなりに主導的な立場の千反田の娘として、ある程度の役割を果たしたいと思っています。」

「わたしはここを最高に美しいとは思いません。可能性に満ちているとも思っていません。でも…」
腕をおろし、ついでに目も伏せて、千反田は呟いた。
「折木さんに、紹介したかったんです」

矛盾しています。
戻ってくることを嫌だとも悲しいとも思っていないのなら、なぜこんなに寂しそうに紹介するのでしょう。
この二人には別れが待っています。1年間楽しく過ごした古典部ですが、卒業すれば別の道を歩まなければなりません。千反田さんは帰ってきますが、奉太郎は大学で勉強した後、神山市を出るかもしれません。そう考える彼女の心を思うと、読む方も悲しくなります。
自分の長所と短所を冷静に見極めて、将来を決める千反田さん。彼女とて万能ではありません。『十文字事件』で自分の短所を思い知った彼女は、それを避けて将来を選びます。しかし、避けただけで、誰かが助けてくれるわけではありません。
奉太郎は、それについて思うところがあるようですが、懸命にも言葉を飲み込みます。まだ、若すぎます。
遠まわりする雛』は、その名の通り遠まわりしながらゆっくりと進む奉太郎と千反田さんの恋を描いた短編集です。たとえゆっくりとでも、ハッピーエンドに向かって歩いてほしいものです。何しろこの作者の作品は後味のすっきりしない作品が多すぎます。

今後の二人は?

とはいえ、わたしはこの二人の将来には幾分楽観するところもあります。なにしろ、『氷菓』にはこんな一節があります。

叔父への手向けに、そして多分それ以上に自分のために千反田は過去を掘ろうとする。そして、不幸にしてこいつにそれを成し遂げるだけの力がないとしたら。
考えあぐねる俺の脳裏に、姉の手紙の一節が、ふと浮かぶ。――どうせやりたいことなんかないんでしょ?
……そうとも。俺は省エネの奉太郎。自分がしなくてもいいことはしないのだ。
だったら、他人がしなければいけないことを手伝うのは、少しもおかしくはないんじゃないか?

古典部シリーズは、省エネだ省エネだ面倒だと言っている奉太郎が、千反田さんに手を貸しながら少しずつ変わっていく物語です。やがては彼女の人生にも手をさしのべてあげるんじゃないんですかね。そうだといいな。

*1:書き下ろしの「遠まわりする雛」を除く

*2:しかし「心あたりのある者は」は推理小説として一定の評価を得ているらしい

*3:というかこの頃になると、もはや無抵抗

*4:おそらくその結果として持ち込まれる難題が増えることを、省エネ主義者として見過ごせない

*5:このことから、千反田さんが奉太郎に向ける気持ちの程度が分かる