女川

女川は壊滅状態らしい。
原発巡りをしていた頃、女川の原子力発電所にも行ったことがある。
原子力発電所の見学に関しては、当時は911以前ということもあって、場所場所で対応が違っていた。構内のバスツアーを企画している発電所もあれば、「原子力館」と呼ばれる電力会社の広報施設だけの見学を認めているところもあった。東北電力女川発電所は、構内を見下ろせる敷地外の高台に原子力館があり、そこだけ見学が認められていた。展示も意欲に欠け、私が訪れた中では一番退屈だった。ホヤの養殖水槽があったのを覚えている。
当時は単車にキャンプ道具を積んで走り回っていたので、宿に関しては鷹揚なものだった。いざというときは野宿すればいいのだし、それはそれで楽しそうだと思っていた。見学の後、発電所のある湾の対岸に船宿を見つけて飛び込みでお願いしたところ、一軒目で断られたあと、二軒目で泊めてくださることになった。
船宿、というところは初めてだったが、翌日は船が出ない日ということで泊まり客は私一人。2階の部屋で荷物を下ろした後、勧められるままに風呂を浴びて落ち着いた後、夕食に呼ばれた。
「船の用意をしていないから」
ろくなものはありませんが、と聞いていたのだが、居間に通されて目の玉が飛び出るほど驚いたのを覚えている。俺、食えるかなと思うほどの量の食事が並んでいた。それも一皿の量はごく普通で、その皿が数えられないほど並んでいる。記憶が美化をしているということもあると思うが、何しろ魚料理だけでフライと煮物があったし、アワビに至っては三種類あったのを覚えている。
ご家族の方を待っていると、私の横に一緒にこたつに入ったおじいさんが一言
「どうぞ」
と。
伺うと、家族の方は別に食べるとか。おじいさんの前にもお膳は出ていないから、どうやらこれは全部私用の料理だと覚悟を決めた。
さて、食事を始めたのはいいのだが、私の横に陣取ったおじいさんは、箸をのばすでもなく相撲中継を私と一緒に見ながら世間話を時折する。ちょっと居心地悪い思いをしながら箸を進めている途中、突如として状況を理解した。
当時30歳を少し超える程度だった私はどうやら「客分」扱いされており、その家の家長であるおじいさんが正式に応対しているらしいのだ。本当は予約もなしに図々しく乗り込んできた宿泊客にすぎないのだから、えらいことになったと背中を汗にぬらしたのを覚えている。
食事中、いろいろおもしろい話を聞かせていただいた。
女川原子力発電所の建設当時には、原発が怖いなどとは知られていなかったので、ほとんど反対は無かったこと。
昔は小学校に子供を送るために船で隣町まで送っていたが、原発ができてから道路が整備され、学校まで作られたこと。
温排水のおかげで魚が大きくなったことなど。
どうもそのおじいさん自身は「どうやら怖いらしいが便利になった」程度に考えていたようだった。壁に大きな魚拓が飾られていた。翌日、単車で去る際も道路に地元青年会による「原発反対」看板が一枚あった程度だった。原発に対する抵抗はまちまちだが、ここは静かだったように思う。浜岡なぞは実にぎすぎすしていた。
飛び込みでおなかが苦しいほどの夕食をふるまっていただいた宿賃はたったの5500円で、これに味を占めて私は何件か船宿をはしごすることになる。
さて、原発のある湾を後にした私は、女川町のあたりでいつにない心変わりをする。
先に書いたように、原子力発電所には電力会社が設置する原子力館がある。そのほかに電力会社が設置した放射線のモニタリングポストが複数設置されているが、それらの値はたいてい原子力館に行けば見ることができる。
それとは別に、実は原子力発電所の周辺には県が設置する放射線モニタリングポストがやはり複数設置されている。つまり電力会社とは独立して地方自治体が放射線量を継続的に測定しており、つまるところその値を解析し、解釈する県立の組織があると言うことだ。
そのとき、本当に偶然だが、その組織らしいものを地図に見つけた。改めて今調べてみると、宮城県原子力センターという名前が地図にある。もう、15年近く前の話だから記憶は曖昧なのだが、県立の組織だったはずだから、たぶんここだろう。それを偶然、単車用の旅行地図で見つけた。なぜ単車用の旅行地図にそんな建物が掲載されていたのかは謎である。
とにかく、それまで何カ所か原発を回って初めて、私は地方自治体の原子力センターを訪れてみようと思った。何があるのかは知らなかった。一般人お断りかもしれなかったし、あるいは啓発設備があるのかもしれなかった。
交差点ごとに地図を見い見い走った道は、日本のどこの地方自治体にもあるような、電線がたくさん空を走る個性に乏しい町だったように思う。正直、あまり覚えていない。
伺ってみると、見学は可能だった。二階に図書室があるとのことだったので、そのまま二階に上がらせてもらった。東北11月である。記憶が正しければ、私はこのあと大船渡や釜石を経て三陸を北上し、笛吹き峠から遠野を再訪している。民俗学に興味を持っていた時期だった。
ひんやりとした図書室は平日と言うこともあって好ましい静けさで、そこには原子力関係の資料があふれていた。当時原発に興味があって、その危険性や安全性、有用性を理解するには構造から始めなければならないと思っていた私には天国のようなところだった。
しばらく資料を読みふけっていたと思う。貸し切り状態で図書室にこもっていた私のところに、センターの入り口で応対してくれた若い女性がやってきた。見るとストーブを抱えている。驚いた。わざわざ2階まで持ってあがってきたのだ。
「寒いですから」
と笑う女性に恐縮しながら、私はちゃんと理解していた。要するに、誰も感心を抱いていないのではないか、と。きっと珍しいのだ。ブーツと革ジャケットに身を固めた見るからに旅行者然とした若い男が、図書室に腰を据えてせっかくとった休日を資料あさりに使っている。誰だって、自分の仕事は意味のあることだと思いたい。意味のあることだと思ってほしい。図書館を作ってもらったのに見向きもされなければつらい。本を読みに来てくれたら、歓待したくもなるだろう。あるいは私の妄想に過ぎないかもしれないが、そんなところだろうと思いつつ、私はありがたくストーブに当たりながら資料をめくらせていただいた。
30分か1時間ほどその場で過ごしたと思う。礼を言って一階に降りると、展示物を見て回った。
「ご質問があれば、何でもおっしゃってください」
と、先ほどの女性がほほえんだ。
まいったな、と思いつつ、私はそのとき、一枚のチャートに釘付けになっていた。チェルノブイリ事故前後での宮城でのガンマ線検出量を示したチャートだった。全体にわたってバックグラウンド線量が増えており、その中に、特徴的なピークが事故の前後に見いだせる。エネルギースペクトルの位置は同じ。電子・陽電子対の作るスペクトルと描かれていた。ガンマ線原子核近傍の強い電界中を飛ぶと、そのエネルギーが実体化して電子・陽電子対を作り出す。陽電子は直ちに近傍の電子と反応して、その質量に等しいスペクトルのガンマ線を放出する。その結果電子・陽電子対結合に特徴的なピークが生じる。
この図に質問があるのですが誰か答えてくれる人はいませんか、と聞くと、その女性が「私が承ります」という。自分の質問を言葉にすると、その方は少し困った顔をして「聞いてまいります」と奥に引っ込んだ。再び現れたときには作業服に身を包んだ技術者らしい若い男性と一緒だった。私は再び質問を口にした。
ガンマ線のスペクトル・ピークが電子・陽電子対結合によるものであることはわかります。しかし、裾が広がるのはなぜですか?」
男性はその場で言葉を失い、暫く立っていたが、「お待ちください」というと、奥に引っ込んだ。再び現れたときには、同じく作業服に身を包んだ年配の男性と一緒だった。
その方に聞かれて私はみたび質問を口にした。即答だった。
「コンプトン散乱です」
あ、と声を出したのを覚えている。今思い出しても軽く鳥肌が立つような鮮やかな回答だった。
ガンマ線は物質の結晶格子で散乱される際に運動量のやりとりをする。結晶格子は熱運動をしているから、ガンマ線が運動量を失うか得るかはそのとき次第である。結果、スペクトルの裾が広がる。一言で、すべてが理解できるような鮮やかな回答だった。
「答えられなかった?」
ロマンスグレーのその男性は傍らの若い男性にほほえみながら言葉を継いだ。
「私が若い頃は原子力は国策産業で、どの大学にも原子力学科がありました」
私が訪れたそのときすでに、原子力は人気のない学問だったという。原子力に興味があるという珍しい客に往時を偲びでもしたか、少しの間遠くを眺めるようなまなざしを、その方が見せたのを今でも覚えている。
女川は壊滅状態らしい。
あのとき会った人々が、今どうしているか。考えるだけでも恐ろしい。生きていてほしいと思う。
日本の原子力発電は、間違いなくこれで終わる。福島第一原子力発電所がどうなろうと、もう、この国は二度と原子力発電所を建設できないのではないか。あるいは再び原発を建設する日が来るとして、きっとそれは半世紀後だろう。今、この事態を生々しく見ている人々の多くは、かつてどう考えていたにしろ、今後原子力発電所の建設に賛同しないにちがいない。
女川で会ったあの人々がそれをどう考えるかわからない。
わからないけれど、生きていてほしい。
そう願う。