臓器移植問題に、ドナーの生死以外の要因をからげる危険性

長旅の後で疲れているのですが、危険な方向に話が進みかねないと直感的に感じたので前のエントリをたてました。もうすぐ寝ますがその前に考えていることをもう少し詳しく書いておきます。
私が前のエントリのリンク先に激しい反感を感じるのは、ドナーからの臓器取り出しのバーの上げ下げにドナーの生死以外の問題を持ち込もうとしていることです。死者からの臓器移植問題は、本来目の前の肉体が人なのか死体なのかという点だけで論じるべきです。しかし、臓器の鮮度と提供時期が不可避的に患者の生存可能性と密接にからむために問題が複雑化しています。
私は「臓器移植をもっと活発化しよう」「臓器提供のバーを下げよう」という意見そのものに対しては一定の理解はしていますし、その背後の心情も理解できます。しかしながら、その問題に
「子供たちが臓器売買の犠牲になっているからとっとと臓器移植できるようにしようぜ」
などという別の要素*1を直接絡めることには強く反対します。臓器移植の可能性判断については、ドナーの生死に基づいてだけおこなわれるべきです。そして生死は生物学的な判定と、その社会がもつ古くからの死生観だけで判断すべきです。個人の生死や脳を含む臓器の生死は決してパタンと状態が変わるものではありません。死の判断をするときに、慎重過ぎるくらい慎重な判断を行うことは間違っていません。
「子供たちが犠牲になっているから移植可能性のバーを下げよう」とか、「移植を待っている誰々さんが可哀想だから移植可能性のバーを下げよう」とか、「将来自分が移植街になったときのために移植可能性のバーを下げよう」といった意見を混ぜてくるならば、私は臓器移植そのものに反対することも辞しません。
こういった意見は、自分の「やさしい心」や利益のために生死の境を動かそうとしています。それを「命を弄ぶ」と言わずに何というのですか。

*1:臓器摘出を目的とした犯罪があるならば、それはその犯罪があることを広く知らしめ、直接取り締まる方法を論じるべき