シンデレラは藤田和日郎の夢を見るか

藤田和日郎は矛盾しています。
この人は「うしおととら」「からくりサーカス」という二本の長編を少年サンデーで立派にヒットさせている上、短編を描かせても評価が高く、しかも人望があります。にもかかわらず、テレビアニメ化されていません。なぜか。諸説ありますが、一つの理由が「残虐だから」。そう。残虐です。この人の漫画って、暴力シーンがきついんです。殴り合いでぼろぼろになるとかじゃなくて、首が飛ぶシーンが出てきたりします。しかも罪の無い人の。子供向けの漫画ですよ。
そのくせ、作品には優しさがにじみ出ています。たとえば、バトル漫画を描くくせに、修行嫌いです。少年が退魔の槍を振りかざして化け物と戦う「うしおととら」では、とうとう最後まで主人公は修行らしい修行をしませんでした。バトル漫画なのに。で、一方では修行僧や復讐者といった修行で心身を鍛え上げた連中が、次々と闇にその心を投じていきます。主人公と対立する登場人物達が人間から離れた心を持つというのは、そうおかしな設定でもありませんが、この漫画では主人公に心を許した人たちも狂気に身を投じていきます。
どうも、藤田という人は修行という自分の心身を一心に鍛え上げる行為を、執着心と同じような一種の狂気と見ているようです。だからそこに幸せな光を見ることが出来ないのでしょう。あるいは「鍛え上げた心身が人の道を踏み外していく悲劇」というパターンが好きなのかもしれません。しかし、それにしちゃ主人公にまで修行を避けさせる理由がありません。
私は前々から、この漫画家は修行を直視できないほど優しいんだろうな、と思っています。きっと修行という一心不乱な鍛錬に、人間の心をたわめてしまうような物を見いだしてしまうのです。それを直視できない。だから主人公に修行をさせたくないんだろうというのが、私の解釈です。
こういう見方はちょっと飛躍しすぎかもしれません。頭の片隅で絶望先生が「作者が考えてもないようなことを深読みするファンっていますよね」とつぶやく声が聞こえるような気がします。とはいえ、修行嫌いは藤田和日郎のもう一つの面、「平凡礼賛」とぴったり合うのです。
藤田作品では、「うしおととら」に出てきた中村麻子の両親のような「単純で、からっとしていて心優しい」人が重要視されます。それは「からくりサーカス」では団長とその養子であったり、連載中の「月光条例」では主人公の養父だったり*1と、あまり変わらない姿で準主役を演じています。この手の「単純で平凡だが気のいい市民」に愛情を注ぎ込むのが藤田作品の特徴です。
そしてその愛情は、老いた格闘家が自分のデータから作られた最強兵士との激しく短い戦いに挑む傑作短編「瞬撃の虚空」ではっきりと言葉にされています。若い頃、家族を顧みずに格闘家としての修行に明け暮れた老格闘家は、その人生を精算するために孫にこう言います。

本当に戦うというのは、日々を生きてゆくことだ
退屈と戦うことだ
働き学ぶことだ
とうさんのように、かあさんのように

食って寝て、食って寝ての毎日の何が不服か、と藤田和日郎は言い切ります。
で、最新作「月光条例

連載当初から読んでいますが「いったいどこに着地するのやら」未だに不安です。喜劇色の強い登場人物、「物語の登場人物を本に帰せば、読み手の世界の被害も元に戻る」という設定は人が死にまくった長編前二作と違って、あまり深刻にはなりそうにありません。それだけに、この物語がどこを目指しているのかわからないのも事実です。第一弾の「鉢かずき姫」第二弾の「三匹の子豚」までは、単におとぎ話から逃げ出した悪い登場人物たちをやっつけてハッピーな勧善懲悪漫画か?と感じたのも事実です。
少し流れが変わったのは第三弾の「一寸法師」からです。「月の光でとち狂った登場人物を元に戻せというが、その『元』がおかしな話じゃないか」という痛烈な揶揄を一寸法師に言い放つ主人公。

うれしいねぇ、女をだました張本人から「おまえのせい」のそのセリフ

かっこいい。電車の中でのけぞりましたよ。しかも、月の光に打たれて狂気に走ったのは、意外にも鬼ではありません。主人公、ヒロイン、姫様、と各方面から評判の悪い一寸法師には返す言葉がありません。
しかし、物語はその後とてもとてもとてもご都合主義的な展開を見せて、とても残念なことに丸くおさまってしまいます。なにかこう、藤田作品なんだから、一寸法師が血の涙を流すような心の葛藤があってよさそうなものですが。この時点で、まさか藤田和日郎は今となってはなつかしいPC*2な童話を作る気じゃないだろうな、と不安になったものです。

そんなこんなで連載のほうは第四弾の「シンデレラ」です。今回は長かったです。作者も長くなったとサンデーバックステージのvol.34に書いていますが、ガラスの靴でおとぎの国の兵隊をなぎ倒す、天晴れな登場シーンからして、作者のノリのよさを感じさせたエピソードでした。見開きページではねずみが運転する豪華なリムジンの上で華麗な足技と、黒下着*3を披露したかと思うと、今度はすそが乱れぬようスカートをちょいと摘み上げた優雅な姿でボンネット上にモデル立ち。切れ長のまなざしにゴーグル。しびれましたね。藤田作品では一二を争うかっこよさです。
さて、シンデレラ姫が読み手の世界で峠、高速道路と並み居るスピード自慢を蹴散らす傍らで、ヒロイン無き物語に駆けつけた、読み手側のヒロイン(主人公のガールフレンド)は、「私、きれいな格好してパーティーに行っただけなんだけど、これでよかったっけ」と疑問を抱きます。あとは急転直下。彼女が抱いた疑問を、シンデレラは人生の不満と位置づけます。「ただきれいであるだけで、そこにいるだけでいい人生ではいやだ。自分で決断をする人生がほしい。」
自分の人生を自分の手の中に置きたい。ひりつくような勝負の中に自分の人生を置きたい。少年漫画ではきわめて真っ当な願望です。にもかかわらず主人公の岩崎月光は真っ向からその願望を否定します。しあわせの何がそんなに不満なのか、と。
ところで、最近うなった映画評:

これは「自分探し」を賞賛するような今の風潮に対して「やりたいことより、自分の才能を伸ばせることを、人がお前に求めることをしろ」とアンチを叩きつけてるようでもあり、正直かなり感動した。

自分探しをやめて、人がお前に求めることをしろ。これはずいぶん重い言葉です。DMCの原作者がそういうメッセージを持っているかというと、そうは思いません*4。が、期せずして映画がそのようなメッセージを持ったのなら、それは耳を傾ける価値があります*5
藤田和日郎はさらに一歩踏み込みます。人が求めているかどうかすら関係ない。淡々とその日その日を生きていて、それがささやかでも幸せならば何の疑問を持つ必要があるのか。それでいいじゃないか、と。
ニコニコ笑っていればいいおとぎ話の世界から抜け出して、自分の人生を切り開こうとするシンデレラ。そして「居場所ってのは金やなんかを払う必要が無い場所のはずだが、あの馬鹿はまだそれがわからねぇ」と養父から評される若造の主人公*6。その主人公はシンデレラに言います。「俺には居場所すらないのに、幸せの何が不満なのだ」と。
主人公の岩崎月光は、ねずみが運転する8輪のリムジンを破り、先週はシンデレラが運転するスポーツカーを直接対決で撃破しました。今週号が大団円。日常を否定しろ。冒険に旅立てと叫ぶ少年漫画の文脈に忠実なシンデレラ。そして、日常こそが価値あるものだという藤田漫画を体現する月光。
今エピソードの勝敗はすでについていますが、果たしてこの長編漫画はどこに行くのか。いまだに期待と不安がごっちゃまぜになった不思議な気持ちです。でもねぇ。連載第一回の扉絵が気になるんですよ。まるで夜中におもちゃ箱でもひっくり返したように、本から出てくる世界の童話の登場人物たち。藤田和日郎にあれをみせられちゃうと、期待しちゃいますよ。

月光条例 1 (少年サンデーコミックス)

月光条例 1 (少年サンデーコミックス)

*1:そういえば、養子縁組が多い作者です

*2:Politically Correct

*3:この回が掲載されたサンデーは、「金剛番長」で道化番長が見開きで正体を明かすなど、なかなかに豪華でした。とっときゃよかった

*4:だってただのギャグ漫画

*5:この映画は見ていませんが、書店で流れていたクリップはかなり原作に忠実な世界を作っていると感じました

*6:藤田作品では、主人公であっても若造は若造として扱われる。世間知らずで、物を知らないバカとして。

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