絶望先生のアニメはどこに行くんだろう

オープニングとエンディングが絶賛されているアニメ「さよなら絶望先生」ですが、本編の出来の悪さにがっかりしています。先週末放送分(身の丈を測る)には、幾分工夫が見られて今後良くなるのかもしれないと期待させられました。が、それ以前のものに関してははっきり言って低品質です。
アニメーションのスタッフは久米田康治作品の面白さを見誤っています。
さよなら絶望先生という漫画の面白さは、絵ではなく文章にあります。主人公が自殺をするという絵柄が面白いのではなく、死にたがりのくせに「死んだらどうする」と思わず口走ってしまう皮肉が面白いのです。久米田康治は重大事からどうでも言い瑣末なことまで、物事の表と裏にある皮肉な事情を切り取って来るのがとても上手です。さよなら絶望先生かってに改蔵が「あるあるネタ」であふれかえっているのは、作者の観察眼が小さな、そして毒々しい皮肉を見逃すことが出来ないからです。
文字であれ絵であれ、こういったネタは理解するのにある程度の時間がかかります。皮肉と言うのは、そのばかばかしさが沁みてきて初めて面白さが理解できるからです。それが見逃しがちなものであればなおさらです。ところが、アニメ化された絶望先生の中ではそれらのネタは黒板の落書きとして場面ごとに消化されたり、早口のせりふの中に埋もれてしまっています。皮肉を消化する時間が与えられていないのです。アニメにとって時間は命のはずなのに、スタッフは「間」に対する理解を欠くと言わざるを得ません。それとも、コマ送りで画面を観察して喜ぶファンしか眼中にないのでしょうか。
アニメにも「絶望した!」というせりふの前に決めシーンを配置するなど、ある程度評価できるところはあります。それだけに、久米田作品の特徴と言える黒々とした皮肉をぞんざいに扱っているのは残念です。
ところで、久米田康治と言う漫画家は、自分の才能をどう使っていいのか今でも戸惑っているんじゃないでしょうか。彼があだち充にあこがれていたと言うのはよく目にする話ですが、実際に独立してみると、あだち充のような柔らかなストーリーの才能はなかったようです。そのかわり久米田康治にあったのは細かな矛盾や傷を暴き立てながら、それがグロく見えないような癖の強い感性と表現力でした*1。結果としてあだち充作品とは遠い、毒々しいのにからりとした、あるある漫画が出来上がります。が、その漫画ではもてる画力なんか発揮できません。いや、あのシンプルでわかりやすい線は十分評価に値すると思うのですが、キャラクタの衣装に対する濃密な執着心なんてのは、本来不要なものです。あまり懲りすぎると時間も足りないし。
さらに、あれこれ新しいことを試そうにも、それを許さない事情があります。あるあるネタであまりにも自分をはじめとする漫画家や作品を自虐的に揶揄してしまったため、何かを始めようとすると自分が使ったネタという地雷を踏んでしまいます。てこ入れすら出来ません。そもそもアニメ化されないことをネタにしていたため、アニメ化が発表されたときに、読んでいるファンのほうが照れくさいと言うか目のやり場に困る妙な雰囲気になったのは、記憶に新しい話です。
そういった、自縄自縛の中で欲求不満のはけ口として使われたのが、単行本のカバー絵や、各話のタイトルページ、あらすじ、絶望文学でしょう。これら、本来おまけ的なものの質が極端に高い上に本編と異なる方向の才能が発露されている結果、コミック「さよなら絶望先生」は少年マガジン連載「さよなら絶望先生」とは少し違う雰囲気をまとっています。
アニメのオープニングやエンディングは、言ってしまえばコミックスの表紙や絶望文学、そして本編のおどろおどろしいところを抽出して料理したものです。それはアニメファンにとっては楽しいことなのかもしれませんが、久米田ファンとして言わせてもらえば物足りないことはなはだしいのです。なぜなら、漫画の面白さとは違うところだから。
まだ放送も中盤に差し掛かったばかりですから、今からダメだといい切るわけではありません。今後の方向転換を期待しておきます。
なんてことを書くと、「作者が考えてないことまで読み取ろうとするファン」という久米田地雷を踏んじゃったりするんだよなぁ。

*1:当初は下ネタ寄りだったが