やさしき大阪人

振り返ってみると、この半年ほど、読書歴がささくれ立ったものになってしまいました。
たかが半年で読書「歴」でもありませんが、仕事が忙しいのを理由に手ごろな漫画ばかりあさっていたのは反省を求められても仕方のないところでしょう。私の生活にあっては付き合いの長い「友」である技術関連書籍も、いくぶん食傷気味に感じてきました。。
ここのところ、内面が少々悲観的に、つぎには自棄になっているのですが、まだ仕事が好転する兆しはありません。ばかばかしい漫画は愛すべきものとはいえ、脳みその栄養としてしっかりした文章が幾分恋しくなってきています。
ところで、北海道中標津に開陽台という名前の、見晴らしのよい丘があります。
そこのキャンプ場にテントをすえたまま、夏に単車で釧路の平原を走り回ったことがあります。社会人のくせに図々しくも休みを2週間もとって遊び呆けていた頃です。仕事は忙しかったのですが、若いうえに独身だったため、まだそれほど苦痛でもありませんでした。その分遊んでやれと思っていたのです。怖いもの知らずだったといえるでしょう。
道東というところは初めてだったのですが、真夏というのにびっくりするほど寒くなる日もあり、かと思うと濃い霧に包まれることもあります。「釧路平原は霧が多いな。暖流が南からぶつかっているのか」などと暢気に考えたことを覚えています。
単車での旅行にはコツがあります。事前によく考えて、持って行かないものをきちんと決めることです。単車という乗り物は不自由なもので、晴れると暑く、雨が降ると濡れ、風が吹くと寒くて停まると倒れます。おまけに積載できる荷物は、ほんのわずかです。こんな不自由な乗り物にテントと地面に引くシートを載せ、あまった空間に着替えとわずかの食料を載せて走り回っているのがライダーと呼ばれる連中です。文明とは衣食住だとするなら、ライダーは耐えられる限界まで文明を切り捨てて走り回っています。
持てる荷物がこういうわけなので、長期の旅行をするならばどこかで洗濯をしなければなりません。あるいは単車の安定を崩してでも毎日の着替えを山のようにもって行くか、夏でも着替えないなどという決断を迫られることになります。
とにかく、私は旅先で洗濯をする方式を採用しました。その旅行では、幸いにも(?)雨が降ることが何度かあり、小雨の降ったある日の朝に
「今日は街に下りて洗濯をしよう」
と決めました。ひげも伸ばしっ放しで汚い格好をしていたことを考えると、街に下りるというのはぴったりの表現です。
道東の町はライダー慣れしています、キャンプ場の近所には手軽なコインランドリーがあったりします。中標津のコインランドリーを探し出して汚れたものを全部洗濯機に放り込むと、さて、1時間ほど何もすることがなくなりました。私は喫煙もパチンコもしません。本屋に行くしかないでしょう。
そのとき本屋の棚を前に何を考えていたのかは、今となっては幾分はっきりしません。わかっているのは司馬遼太郎の「燃えよ剣」上下を買い、コインランドリーに戻って椅子に座って読みふけったということです。洗濯機が止まると荷物をまとめ、キャンプ場に戻って雨をいいことに暗くなるまでむさぼり読みました。晴れた日は当然走り回ります。時間がいくらあっても足りないほど道東を走るのは楽しいのですが、一方で頭の隅に読みかけの本がこびりついてしまっていました。
帰る前日に釧路を発ち、10時間ほど走りに走って長万部についた後、風呂を浴びて泥のように眠りました。折からの雨でいくつかの橋が通行止めになったことを知っていましたが、最終日は運よく晴れ、時間通りに函館に着き、JRの特別列車に単車を放り込んだあと、寝台車のなかでようやく下巻の続きに手をつけることができました。「燃えよ剣」の最後の舞台が函館であることに気づいたときには、列車は青函トンネルをくぐったあとです。馬鹿みたいな気分だったことを覚えています。
それから2ヶ月で4~50冊ほど司馬遼太郎の本を読むことになります。幕末と明治維新の長編が主ですが、それこそ電車の中で、飛行機の中で、出張先のホテルで、寝る前に、起きた後にと、司馬遼太郎漬けといっていい日々でした。
振り返ってみるとあの妙に高揚した2ヶ月間はもう十年も前のことであり、これを書きながらすこし驚いています。自分に一番自信のあった頃です。それなりに血沸き肉躍る思いがあったのでしょう。

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

以前から本屋でこの本を目にしていたのですが、どうもこう、あちこちに書いた文章を集めて売るというのが「死人で商売をする」風に感じられて、あまり手にとろうという気がしませんでした。しかしながら、いざ読んでみるとやはりこの作者です。漢文の影響を思わせる独特の堅い文章の間に、不快なこと、愚かなことをこっけい劇として書かずにはいられない、やさしさがあふれています。
1巻は新聞記者時代から、作家としてデビューし、社を辞する頃まで、さまざまな雑誌や本に寄せた短い文章を集めたものです。短編小説あり、身の回りの話あり、やや眉唾のお化け話ありと、どこから読んでも楽しめる、しかし司馬遼太郎ファン以外には通用しない一冊です。
旅のお供にどうぞ。