どこに立つかが試されている

光市母子殺害事件の差し戻し控訴審に関する意見のひとつです。いろいろ読んだ中で一番納得のいく話でした。私は死刑存続論者ですが、刑罰を感情の延長線上で行ってはいけないというこの人の意見には強く同意します。

酷な言い方だが、裁判は「被害者」の為だけにあるのではない。そこを見誤ると司法そのものが機能しなくなってしまうだろう。

コメント欄を読むと「そんなことはないだろう、刑法には復讐の意味もある」という意見もあります。が、刑罰は社会が罪に対して必要に応じてあたえる罰であって個人的怨恨をはらすための復讐ではありません。
死刑というのはある種の敗北だと思います。死刑とは犯した罪が死に値するという一種のバランス感覚ともいえますが、一方で社会が「この人物はどうやっても罪を償えない、改心させて社会に再び迎えることはできない」とあきらめたことの表明でもあります。その意味で無期刑も敗北だと感じます。
単に罪を罰するのが目的ならば、刺青まで入れてしまえばいいのです。そうして服役後もどこか小さな島で活動を制限してしまうほうがいいじゃないですか。そのほうが社会としてはサッパリします。しかし、文明国家としてそういうことを良しとしないという考えが現在の刑法の中にはあります。犯罪者といえども罪を償えば社会に迎えるべきだし、社会でもう一度暮らせるよう教育すべきだという考えです。
もちろん、実際に犯罪に巻き込まれた当事者がそのように冷静に考えることができるかというのは別の話です。また、そういった被害者をかわいそうに思い、何とかその怨念を晴らしてやりたいと思うのも、人の情としてごく健全でしょう。しかし、情で刑罰を動かしてはいけません。
情で刑罰を動かすのは、文明国家の国民がやることではありません。
結局、我々は試されているのでしょう。むごい犯罪を犯したものに、遺族に代わって国家が痛烈な捌きを加えるべきだという情。一方で、どのような犯罪者にも冷静にあたり、法にのっとって粛々と刑を実行すべきだという冷静な論理。この間のどこに立つかで、文明的な国民であるか、蛮族であるかが試されているのでしょう。
つらいのは、確実に社会の一部が獣になりつつあることです。年々、犯罪の凶悪度はエスカレートし、日々、我々をたじろがせる新しい狂気が振りまかれています。試されつつあると感じながら、そのハードルは年々高くなっています。
やるせない高さを感じます。