地震

以前イスラエル系企業で働いていたことがあります。
テルアビブによく出張しましたが、先方からもよく出張で技術者が来ていました。その中の若い技術者にD氏がいました。彼の名前はヘブライ語では「熊」を意味するらしく、彼女からのプレゼントという熊の写真がキューブに貼ってありました。立ち上がると180cmを楽に越える彼は筋肉質で熊の名に恥じない体躯の持ち主です。それでいていつも物腰は柔らかく、落ち着いて他人の話を聞くというユダヤ人らしからぬ面も持ち合わせた男でした。彼女にとってはさぞや優しい熊さんであったことでしょう。
そのD氏が来日した折の話です。同行数名と客先でみっちり絞られた後、ホテルに帰ったのは深夜。「ミーティングしよう。酔漢さんも参加してくれ」となって、リーダーY氏の部屋に集合しました。客先に近い新横浜のPホテルは近所に並ぶものの無い高層建築物です。そこで、あれこれ話し合っているときに「ゆさっ」と来ました。
1996年3月6日、河口湖周辺で震度5を記録した地震です。
横浜では大してゆれなかったものの、そこはそれ、高層ビルの上階です。比較的振幅の大きな揺れになりました。
(揺れが大きいな)と窓の外を見やった時に突然部屋の中に大声が鳴り響きました。
"Earth Quake!!"
見ると、D氏が立ち上がって目をむいています。
(やっべー)
「みんな、逃げろ!!大変だ!!逃げろ!!」
生まれて初めてパニックに陥りつつある人を見ました。ゆさゆさと揺れる部屋の中で熊のような体躯の男が立ち上がり、大声でわめいています。
「座れっ!!」
とっさのことでしたが、腹の底からなるべく低くて大きな声を出して怒鳴りつけます。
「でも地震だ!早く逃げないと!」
一瞬、はっとした様子で私を見たD氏ですが再度揺れに恐れをなしたか、すぐにあっちの世界に行きそうになります。
「黙れ!安心しろ、俺はこの国で35年生きてるんだ!お前よりずっと地震について知っている!」
目をにらみつけたまま座って大声で命令します。
「でもここは高層…」
「高層ビルは耐震テクノロジーの塊だ。振幅が大きいのはしなやかな構造のおかげだ。外を見ろ!火が出ているかっ!」
地震より危ない状況に置かれて脳が秘められた力を解放したのか、すらすらと英語が出てきます。
「でも…」
「座れっ、パニックが一番恐ろしいんだ。走り出すと怪我をするぞっ」
イスラエル人と付き合って覚えた最強説得術。相手にしゃべらすな(笑)。最後までしゃべらせなければパニックすら防げる、というのはこのとき得た大きな教訓です。血肉になったと言えましょう。
書くと長いですが、この間たかだか10秒程度のやり取りです。揺れが収まってようやく落ち着いた彼ですが、まだ、
「物の本によると余震と言うものがあるそうじゃないか」となかなかの知性派振りを発揮してパニックに走り出そうとします。
「まぁ、落ち着いて。TVつけてよ。たまには我が国がどれほどすごいか見せてあげるよ。まずはテロップが出るまで30秒かね」
などとなるべく余裕のあるところを見せ付けます。
「ほら、字幕が出たろ。第一報だ。早いだろ。日本全土に地震観測網があるんだ」
「おおー」
震源地は河口湖の近辺か。富士山の近所だよ」
「噴火するのか」
「しねーよ(笑)」
「もうそろそろ続報が来る。少しずつ詳しくなるんだ。ほら。おお、震源地付近では震度5か。そうとう揺れたぞ。」
「この辺は?」
「大してゆれてないはずだよ。ほら、さらに詳しい情報が出てきた」

と、まあ深夜にちょっとした騒ぎがあったのでした。「イスラエルは怖かったでしょう」とよく聞かれますが、なんのなんの、イスラエル企業で働いて一番怖い目にあったのは新横浜のホテルでしたよ。

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