司馬遼太郎調DSP前史

信号処理について書いてみたい。
今、手元に古い論文がある。「実時間ディジタル信号処理マイクロプロセッサに関する一検討」と控えめに名づけられたこの論文は、一般にはあまり知られていない。執筆者は西谷隆夫、という。我々日本人が信号処理の世界において今後重要な位置を占めたいと願うならば…必ずしもその願いがかなうとは限らないとはいえ…覚えておくべき名である。
西谷が書いたこの論文は手書きで1ページしかない。論文というよりは、報告と呼んだほうがすわりがよいであろう。彼はこの論文の中でソフトウェアによって実時間信号処理を行うプロセッサを試作したことを報告している。
驚くべきことに、この論文は1976年に発表されている。およそマイクロプロセッサの歴史に詳しいものならば、1976年がどのような時期であったかわかるであろう。Intelの8080が発表されたのが1974年、MotorolaMC6800が1975年であったから、まだ世の中に8ビットのマイクロプロセッサが広まり始めたばかりである。マイクロプロセッサがまだ掛け算すらできないよちよち歩きのおもちゃだった頃に、西谷は大真面目で人間の声を実時間ディジタル処理をするコンピュータを考えていたのである。
この当時、人々はまだシリコンの時代が来つつあることを知らない。
余談になるが、この年…1976年のことである…VHSデッキがはじめて発売されている。当時提唱されていた規格は複数あったがソニーのβ方式が優秀であり、これが主流になるであろうと考えられていた。ところが蓋を開けてみるとビクターのVHS方式に賛同するメーカーが圧倒的だった。
外交努力の成果、といってよい。ビクターは製品を開発するに当たって単独で市場を制覇するのは無理だと考えていた。単独で無理ならば連合を組めばよい。電子機器メーカーは市場で競争を繰り広げており、競争とは戦争である。戦争を純粋に軍事力の衝突と考えるならば、単に優れた武器を数多く持つほうが勝つ。しかしながら戦争とは外交活動の複雑な表現形式の一つでしかなく、それゆえ戦争の勝敗には軍事力以外に外交活動が大きく作用する。戦争において勝者とよばれるには、単に暴力に勝るだけではなくこの複雑な外交力学を理解しなければならない。
ビクターはそれを理解していた。そして、勝った。
話がそれた。
西谷がソフトウェアによるディジタル信号処理の報告をしたのは1976年である。それはきわめて早い時期であったが、決して彼一人がその着想を持っていたわけではない。競争者が、いた。歴史を紐解くと、わが国では少なくとも3箇所でソフトウェアによる実時間信号処理の実験が行われていた。ここでいう実験とは、実用化を目指した実験であることに注意していただきたい。当時でも大型コンピューターであれば実時間信号処理を行うことは可能であったであろう。また、ミニコンを使った音響制御の実験も行われている。しかしながら、これらの実験は機器の中に組み込んで音声信号を処理しようというものではない。
西谷他のグループが頭に描いていたのは電話回線網のディジタル信号処理である。高度成長時代の終焉から数年の間に、日本の中流階級には隅々にいたるまで電電公社の電話機がいきわたっていた。黒電話の名前で知られるもっとも普及した電話器は正式名称を600形と言う。これもまた余談であるが電電公社という早くから親方日の丸の体質を非難された組織は、全国の家庭で使う電話機に対して過剰なまでの品質を要求した。そのためにこの当時量産された600型電話機は30年を経過した今でもまったく問題なく動作するという恐るべき頑健さを持っていた。
さて、電話機とは、それ自身では用を成さない奇妙な機械である。電話とは遠く離れた人と話をする機械であり、それゆえ、どのようなときでも電光のような速さでこの国の端から端へと回線を接続しなければならない。当時において、それを行ったのはクロスバ交換機と呼ばれた巨大な金属機械である。この怪物のような精密機械はまるでたたみ職人が精密な動きでたたみのヘリを縫い上げていくように気の遠くなるような数の接続を精密に縫い上げた。
交換機はさしずめ電話回線網の頭脳である。頭脳は稲妻のような速さで回線を接続する。頭脳があるならばその指令を伝える神経がなければならない。電話線がそれである。人々の声は電気信号となって電話線を伝っていた。電話線は導体を寄り合わせた、ただの線であり、何も難しい仕掛けはないように思える。しかし、驚くべきテクノロジーが例外無しにそうであるように、電話線にもその凡庸な見た目の向こうに複雑な謎を隠し持っている。
単純に見える接続でも、電気の眼で見れば複雑な性質を持っている。遠距離の電話線を通して信号を送れば信号はひずんでしまう。コイルとコンデンサがこれを正すために使われたが、どちらも製造上のばらつきが大きく、また年を経るにつれて性格が変わるという困った問題があった。
コイルとコンデンサという幾分気まぐれな部品は、特性にばらつきがおおく、しかも時間に応じて特性が変化する。ところが電電公社では加入者が増えるに連れて膨大な数のコイルとコンデンサを抱え込んでいた。これらの特性が正しいか、今日正しくても明日はどうかをいちいち確認していては増え続ける加入者を支えることなどおぼつかないだろう。これは困る。
幕末期の長州藩高杉晋作は、終生「困った」といわなかったという。人間、窮地に追い込まれることはある。だが、そのときに必要なことはその場から脱することである。困った、と口にすれば思考が停止し、窮地が死地に変わるというのが彼の考えだった。
特性が変化するなら、変化しない部品に変えればよい。そのためにはディジタル化がいちばんである。
高杉のような人物だったかどうかはわからないが、そう考えた者達がいた。彼らは現に交換機をディジタル化する一大プロジェクトを進行中であった。これが完成すれば大きな音を立てて年々磨り減って行くクロスバ交換機を捨てて、磨り減らないコンピュータに置き換えることが出来る。しかもコンピュータはプログラムを変えるだけでその動作をいかようにも変更できる。
交換機をディジタル化できるなら回線もディジタル化できないか。そう考えるのは自然なことであり、実のところ古くからこれは論じられていた。だが、ハードウェアによるディジタル音声処理は大規模化することがわかっており、しかも仕様変更に応じにくい。
そうであるならば、ソフトウェア化してしまえばよい。そう思いついたのが西谷たちだった。殆どの人間にとってまだコンピュータとは巨大な箱であり、それを回線ごとに一台づず配置するなどあまりにばかばかしすぎて想像することすら出来なかった。人前で口にすれば狂人のレッテルを貼られるであろう。
だが、西谷には確信があった。
(昼休みのおいたデス。さ、仕事仕事)

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